博奕打は手―殊に指の先が生命である。従つて彼等の指先の触覚は驚くほど鋭敏であつて、此の点では掏撲でも手品師でも遠く及ばぬものがある。言ふまでもなく博奕打の偽賽を遣ふことは、全く生命懸けの仕事である。簀巻にして池や川へ投り込んだのは大昔の事にせよ、発覚すれば腕の一本や足の片方位は、叩き折られるものと覚悟せねばならぬ。これに加ふるに偽賽を遣ったなどと評判が立てば賭場は寂れる、親分の収入は激減する、自分の估券にも関するので、実に一生懸命と云はなければならぬ。よぐ博徒の口にするところであるが、手品師なら、遣り損じは幾重にも御用捨と前以て口上 で述ベて置くが、博徒の偽賽は遣り損ひは御用捨どころか、遣り直すことが出来ぬのであるから、手練も要するが、それよりも度胸魂の据つてるることが何より肝腎である。此の点から云へば手品師でも真似は出来ぬと誇つてゐる。
それ故に彼等は指先を大切にしてゐて、力業をすると指が言ふことを利かなくなるとて嫌つてゐる。ドサ(警官が現場に踏込むこと)でも喰って懲役の三ケ月も勤めると、すつかり指先が荒れてしまふので、さうなると、二年や三年は偽賽を扱ふ事が出来ぬと聞いてゐる。修業の仕方はカク振りなどと違つて、別段に取り立てて言ふほどの事もないが、先輩に就いて賽コロの取扱ひ方を習ひ、それを毎日のやうに閑さへあれば繰返してゐるうちに追々と熟達する。勿論、これにも天分の有無が影響することは実際で、恵まれた者なら三四年のうちに一人前の偽賽遣ひとなることが出来る。
上手な者になると手の平(左の手に限る)へ賽コロの四ッや五ッ隠すことは何でもなく、更に指の裏ヘ二ッから三ッの賽コロを忍ばせることも容易である。そしてイザ偽賽を遣ふとなると、先づサキ賽を指先で捲きあげてしまひ、予め手の平に隠して置いた賽コロを入れ、勝負が済むと又元のやうに サキ賽と入れ代へて次の者へ廻すと云ふやうな器用なことをする。その手練、その早業、電光石火と云はうか、間髪を容れずと云はうか、全く形容することの出来ぬほどの巧妙さである。斯う云ふところを見せられると、素人が博奕をして勝たうと考へるのは無理なことだと思はざるを得ぬのである。 素人が博奕するのは此の点からも禁物だ。
然るに斯うした名人上手と云はれる偽賽遣ひでも、五十回に一回、一年に一度位は遣り損ずることもある。殊に遣り損じのうちでも困るのは、サキ賽を抜きとるはづみに誤つて偽賽と一所に坪皿の中へ落してしまふことである。即ち賽コロが二ッであるベきのに四ッ入つたことである。此の場合における彼等のクソ度胸は又恐るベきものであつて、少しも狼狽せずして、前の目数などを聴き、それで此の一番は嫌だとか何とか一癖をつけ、坪皿ぐるみ自分の坐つてゐる股ぐらの所へ掻き込み、賽コロを二ッだけ出すと云ふやうな機智を以て、その場を脱するものである。更に又多勢の者のうちには眼端の利く者がゐて、偽賽たることを看破し、その勝負持ッたと声をかけ、坪皿に手をかけながら偽賽なりと主張することなどもあるが、これとても心得が無いと却つて彼等に遣り込められ、理が非になるやうなことがある。それは何故と云ふと、偽賽だからとてそれを詮議するときに、急いで賽コロに手をかけるやうなことがあれば、彼等は直ちにそれを口実にして、スリ代へたのであらうと逆捻を喰はせる。されば場馴れた者はその場合には、御膳箸なり火箸なり取り寄せ、箸の先で賽コロを改めるだけの用意を有してゐる。賭場へ来るほどの者は、素人にしろ渡世人にしろ、口達者の上に腕達者とて、何でも無いやうな事から喧嘩となり、すぐに斬つたり撲つたりの血まみれ騒ぎが持ちあがるのである。勝てば慢じ負ければ僻む。博奕に喧嘩は附きものと云うても差支ないほどである。