一、博奕せぬ者は辻の石地蔵だけ

赤城颪と利根の瀬音とは両毛の野の人をして、長脇差的に気を負はせずには置かなかつた。それは然諾を重んじ睚眥の恨みも必ず報いると云ふ侠骨たらしめるに相応はしいものであつた。私の生れた栃木県の足利地方でも明治以前までは、「博奕を打たぬ者は、旦那寺の本尊と辻の石地蔵だけだ」と云はれたほどで、男も女も老も若きも皆なこれに親しんだもので、「小博奕の一つも打てぬやうな男には、娘を嫁に遣らぬ」などと公言し、従つて賭博は一種の常識教育として、更に金銭教育として行はれたものである。足利は織物地として知られた土地であるが、女工の口吟む小唄は「丁と張りなよもし半出たら、妾の年季を増すばかり」とか、又は「紺の腹掛け片肌ぬぎで、勝負、勝負も粋なもの」と云ふやうな賭博礼讃であり悪の讃美であつた。大正の聖世に時代錯誤と云はうか、八木節の発生地として天下に知られた八木宿(栃木県足利郡御厨町大字福居字八木)や、三十丁を陥てた梁田宿などは、国定忠次や日光の円蔵等が、盛んに遊び廻つた玉村、木崎と同じい例幣使街道の悪場所であつて、半公開の賭博が一宿に二三ケ所づつもあり、朝から晩まで坪皿を伏せる音と勝負の懸け声が絶えなかつた。勝つて宿場女郎に鼻毛を読ませる男、負けて素裸で震ヘてゐる男、さうした泡く銭で生活する宿宿の賑ひは大したものであつた。殊に梁田の如きは百戸に足らぬ小駅でありながら、妓楼の数は三十三戸に及び、此の外に料理店や居所屋を加へると、賭場に出入する者を相手の商売屋が五十戸にも達してゐた。女郎は上玉が二朱(十二銭五厘)下玉は天保銭五枚(今の四銭)であつたが二百人近くもゐて、毎晩のやうに喧嘩や口論があり、駆落や情死も左までに珍しい事では無かつた。

斯うした土地とて賭場の縄張が定まつてゐて、八木宿は足利の日野屋忠五郎の支配に属し、梁田は館林の江戸屋虎五郎の勢力下であつて、二宿とも代貸元と称する有力なる乾児が住んでゐて賭場に出張し、テラ銭とて或る定まつた目(賽コロ二つの博奕ならば、七の数をビリと云ひ、一ぞろより六ぞるまでをソロと云ふ)が出ると、勝つた者から一割づつ微収するのである。春の養蚕後とか、秋の収穫期とか云ヘば、百姓の懐中が肥えてゐるので、一番、いい目を張り当てようと賭場ヘ押掛けて来るので、何れの賭場も銀ザラ(現金で勝負すること)でコマ博奕(コマは通貨の代用として、貸元が出す木片で、最後に現金と換算する)などは出来ぬから、毎日のテラ銭が五十両も七十両もあがると云ふ景気であつた。ボン胡蘆(備後表の両鬚を切らぬもの)を三四枚も縦に敷き、百目蝋燭を真ッ昼間のやうに燈し、上座に貸元がテラ箱を擁して大胡座をかき、両側に三四十人づつ坐るもの立つものが居並んで、壱両以下は張ッこなしと云ふやうな大博奕になると、小判や額銀がボン胡蘆の上に落花の如く置き並ベられ、仲ボン(張人の間に居て世話をする者)眼光は雷の如く輝き、坪振り(これには廻り坪とて張人が順次に、賽コロを坪に入れて伏せるのと、これに反して渡世人が一人で伏せるのとある)は芥子玉の手拭かなんかで向う鉢巻、片肌ぬぎ(一人坪のときは如何なる場合でも、右の肌をぬぐことになつてゐる。これは悪事をせぬと云ふ証拠である)で勢ひよく坪を振る。勝たうとする者の意気組み、負けまいとする者の駆引き、息詰るやうな光景は実に凄惨なものであつた。