一二、子持湯の研究と雁風呂の由来

本来なれば、ここに、明治期の浴場を記すベき筈であるが、これは余りに近いことで、読者の記憶にも残つてゐることと思ふので省略し、その代りとして、余り世間に知られてゐない温泉や、風呂に関する二三の伝説を載せることとする。

子持湯とて、その温泉に入れば姙娠すると云はれてゐる湯は各地にあるが、その中でも、野州塩原のそれが最も有名である。湯は箒川に臨んだささやかなもので、天然の岩を掘りさげた浴槽であるが、此の湯槽の一方に長さ二尺ばかり、太さ一尺ほどの岩が横さまに突出してゐる。

子宝の欲しい婦人は、此の岩に服部を当てて充分に温めると、必ず身持になると伝へられてゐる。

併しながら、女性の身で白昼さうしたことも出来ぬので、夜分人に知られぬやうに忍んで来て、それを遣る者があると聞いてゐる。

これは昔ふまでもなくリンガー崇拝と、岩石崇拝との二つの俗信に由来してゐるのである。

信州諏訪郡の上諏訪から下諏訪までの間には、到るところに温泉が湧き出て、それを繋ぐと一筋の線が出来る。これは昔、諏訪神社の祭神となつた健御名方命が、経津主命(鹿島神宮の祭神)に追ひ詰められて、今の上諏訪の神宮寺のあるところへ来て、その妹神である八坂刀売命と一緒に暫く住ん で居られたが、後に夫婦喧嘩が持ちあがつて、妹神は背神と別れて下諏訪へ移られる事となつた。

其時八坂刀売命は、種々なる調度を持つて往かれたが、平生のお化粧に使はれてゐた温泉も、無論その中に含まれてゐたのである。即も今の湯の上の温泉が、そのお化粧の湯であつたさうで、妹神はその温泉を綿に浸して、湯玉と云ふものにして、それを抱へて往かれたのであるが、綿に浸したのであるから如何にするもこぼれぬ訳にはゆかぬので、道々たらたらとこぼれて、小和田まで来ると、どうしたことか急にこぼれ出して、今の小和田の温泉が出来た。

それから上諏訪の湯の脇温泉、七ッ釜温泉、その他そこらの温泉も、総て此の雫から出来たのである。かうして八坂刀売命は下諏訪へ来て、その湯玉を今の立町に置かれた。下諏訪の温泉が今に一番多く湧き出るのは、この湯玉のお蔭ださうで、綿の湯と云つてゐるのも、亦この故事からだと伝へてゐる。

山形県西田川郡の湯田川の温泉は、現今では湯宿が軒を並ベて繁昌してゐるが、昔は誠に寂しいところであつた。

それが或る年のこと、一匹の牛が地面を角で掘つて温泉を出し、病んでゐた眼を癒したので、霊泉として世間に知られ、今の田の湯は牛の掘つたのだと云はれてゐる。

奥州の外ヶ浜には、聞くだに哀愁をそそる雁風呂の古事が伝はつてゐる。笈埃随筆に、

「言ひ伝ふ、奥南部の地に雁の渡り来る海上甚だ遠し、故におのおの小さき木の枝をくはへ、渡る途中にして此の木を海に落し、それに乗つて暫く羽を休め、又くはへて立ち、南部の地に至るとき悉くその木を棄て飛び去る。然して春帰るとき、又この木をくはへて飛び行くに、所々にて奪取られ、締にかかりて多く人の手に落つ。故に何時にても此の木、跡に残りあるを、国人捕はれし雁のために、此の木を捨ひ集めて風呂を焚き、諸人を入浴せしむ。これ其の追善なり。これを号して雁 風呂と云へり」とある。