一一、男女混浴と京阪の風呂屋

江戸における浴場の光景は、式亭三馬の桀作「浮世風呂」によって尽されて居り、然もこれは天下周知のことであるから、茲には省くとし、余り世間に知られてない京都と大阪のそれに就いて述ベるとする。

京阪は古く男女とも混浴であって、風儀上よろしくないこともあり、天保年中(江戸は寛政年中)に男女の浴槽を区別したが、湯銭は八文を定めとした。

京都の浴法は、初め大槽の方に入つて垢を流し、さらに小槽にて再浴し、身体を浄めるのを習ひとした。

同地は生活が質素である上に、居付の家が多いので、風呂は各家毎に設けてあって自用とした為めに、町の風呂屋は、大阪や江戸に較べると、その数が非常に尠かつたと云ふことである。

それ故に、湯屋の株も京都よりは安く、且つ売買も稀れであつた。元禄の頃、京都に荷ひ風呂とて、据風呂を担ぎ歩いて、一人前銭三文づつで入れたと云ふことである。さらに延宝ごろには辻風呂と称して、臨時に道の辻に風呂桶を据ゑて、入浴させたこともあったと伝へられてゐる。

大阪では昔から、湯屋は八町四方に一軒だけ許すのを定制とし、それを株と称してゐた。新規に願ひ出ても許可されぬので、湯屋を営みとせん者は、株を買ふより外に致し方がなかったが、その結果は株の騰貴となり、銀五六貫目(一貫目は、今の百円ほどに相当する)から、場所によっては五六十貫目に至るものがあつたと云ふ。それから大阪は河の多い所とて、湯は井水を用ゐるより河水を使ふ方が多く、殊に河水は柔かであるために一般から悦ばれてゐた。

浴槽の構造にも大阪のは特色があつたが、今は細かいことは省略する。

江戸期になってから、各地の温泉場とも繁昌を加へるやうになった。これは一般国民の生活が向上した結果ではあるが、打ちつづく泰平に、旅行が安気に出来るやうになつたので、我も彼もと出かけるので、自然と各地とも賑ふやうになつたのである。

それに医薬の道が十分に発達してゐぬので、それの補助として、気を養ひ病を癒すためにも必要なのであつた。されば昔は、温泉に往くことを湯治と云ひ、塩湯に入ることを塩湯治と云うてゐたものである。又以て当時の人々の、温泉に対する心持が窺はれるのである。