江戸に風呂屋の出来たのは、徳川家康が入府して間のない天正十九年の夏である。
伊勢生れの与市と云ふ者が、銭瓶橋(現今の中央電話交換局の附近)の辺りに銭湯を建て、風呂銭は永楽一文であつた。世間の人々が珍しがって入浴に押しかけたが、その頃の風呂は設備が行届いてゐなかったので、「あら熟やの雫かな、息が詰りて物も言はれず、煙にて目も開かれぬ」など云ふ騒ぎであつたが、それでも物見高い都会のこととて入浴者も多く、それを真似て、其処にも此処にも銭湯が出来て、幾年かの後には江戸市中の各町毎に設けられ、湯銭も錏十五文二十文づつで入れ、然も風呂屋には家毎に、
「媚ける女ども二十人三十人づつ並び居て、垢を掻き髪を濯ぐ。又その外に容色たぐひなき心さま優にやさしき女房ども、湯よ薬よと云ひて持ち来り戯れ、浮世語りをなす。一度笑めばものの媚をなして、男の心を迷はす、これを湯女風呂と名づく」と、慶長見聞集に記してある。
湯女が風紀を乱しことは、独り江戸ばかりでなく、京都でも大阪でも、実に猖獗を極めたものであつた。
少しく時代は降るが、加賀の金沢は百万石の前田侯の城下であるが、市中に湯女が跋扈して害毒を流すので、風呂屋者を捕へ、泉野で磔の極刑に処し取締を厳重にしたが、それでも後には犀川下川除町、観音下、母衣町などに湯女が出没したと云ふことである。かうした事情は、さらに大都会である三都にあっては一段と露骨に、然も大胆に行はれて、幕府の尋常の取締では、中々に根絶することは出来なかつたのである。
それと同時に湯女のうちにも、傾国の美人の多かったことも注意せねばならぬ。誰でも知つてゐる丹前楼の伊達姿を工夫した勝山は、丹前風呂(堀丹後守の前に在ったと云ふので、かく称したと云はれてゐる。今の神田雉子町の辺である)の湯女であった。
吉原三千の遊女をして、顔色無からしめたと云ふ名妓薄雲もまた湯女であつた。大阪でも、大近松の宸筆によって蕩鬼の涙を絞らせた天ノ綱島の小春は、蜆川に近い桜風呂の湯女であった。かく美人は湯女に多かった。随って嫖客の群集する需給の原則から見るも当然であつた。
それ故に、幕府でも棄てて置く訳にも往かぬので、度々これが掃蕩を計り、遂に江戸では、明暦年中に市内の風呂屋を取り潰し、湯女と称する私娼を悉く吉原の妓楼に収容したが、湯女の勢力の偉大なる―彼等は吉原風に化せられずして、却つて吉原を風呂屋風にしてしまったと伝へられてゐる。
遊女の一階級に散茶と云ふのがあつたが、これは湯女から出た呼び名だと云ふことである。