天正の頃に、蒲生氏郷が諸士を歓待するとて、躬ら頭をつつみ、風呂の火を焚いたことが老人雑話に取せてある。
氏郷といへば豊臣秀吉の股肱の臣で、然も大々名であるから、これは陣中においてのことと見なければならぬ。従つて此の一事から推すと、当時風呂の普及は、陣中で用意するまでに発達したのであらう。
豊臣秀吉が伏見に居た折に、豊後橋の附近に銭湯があつて、大名小名をはじめ、旗下歴々の武士まで多く入浴して繁昌したが、戦国の気の荒い者の集る所とて、毎日のやうに喧嘩や刄傷があって町民は迷悪したとある。そして、喧嘩の原囚として最も多かったのは、当時の習ひとして、武士達が入浴の際には髪を解いて洗ふので、その水や湯が浴客にかかるので口論となるのが常であつた。
従つて、湯女の仕事は単に垢を流すばかりでなく。髪を洗ふ方が仕事の主なるものであった。
それに此の当時は、男女ともに入浴するには浴衣を着るか、それでなければ男子は下帯を、女子は腰巻をしたものであるから、それの洗濯も亦一仕事であつたに相違ない。
後世になつても、浴衣を湯方と云ふのはこれが為めであつて、腰巻を湯文字と云うたのも、亦これの名残りを留めたもので、風呂敷とて物を包む布を斯く称したのも、元は風呂で濡らした浴衣や、湯具を包んで持ち帰る用にしたので起つた名である。
それから男子の用ゐる下帯のことを、俗に、越中褌と称してゐることは誰も知ってゐて、且つそれは松平越中守定信が、寛政度の倹約政治を行うた折に、特鼻裸と雪隠の戸は半分で宜いとて、六尺を三尺にしたので、是れを越中褌と云ふのであるなどと、真面目になつて説く者もあるが、全く信用されぬ浮説である。
さらに一説として、元禄年中に大阪新町の遊女越中の嫖客が、風呂に入らうとした折に、生憎にも下帯をしてゐぬのを見て、越中が、自分で着てゐた白縮緬の長襦袢の片袖をもぎり、咄嗟の間に、下帯を拵へたので、それで越中褌と云ふのだと鹿爪らしく論ずる者もあるが、これとても、信用されぬこと、前説と少しも変るところがない。
越中褌と言うたか否かは判然せぬが、此の種の下帯は春日権現絵巻に見えてゐるから、古くから在つたことだけは事実であらう。それにしても、入浴に下帯を着ける風俗があったので、遊女越中のやうな附会説が生れたのである。