八、風呂を利用した将軍の女房狩

室町期の大名小名が珍客を饗応する折に、風呂を仕立てて入浴させることが、一種の流行となつてゐたが、さらに代々の将軍が、臣下の家へ「風呂の御成」と称して赴き、その実際は、酒宴を設け、美人を愛することが猖んに流行した。

殊に、足利四代の将軍であつた義持は、此の乱行に最も勇敢なる一人である。応永二十七年、朝鮮から我国へ来た回礼使宋布環の「老松堂日本行録」の六月十三日の条に、実に左の如き記事が載せてある。

王(将軍義持の事)甲斐入道の第に往く、主人は妻を率ゐて庭に出て之を迎へる。王、管領以下二三人を随へて来る。主婦、王を堂上に迎ふ(これより酒宴の有様を述ベ)乃ち王酔うて浴室に入る、主婦これに従つて入り、王の身の垢を去る。これ日本子孫相伝の法なり。今王、この法を以て諸家の妻に通ず(厚漢文、取意)

此のことは、一に「将軍の女房狩り」とも云ひ、代々の将軍の慣用手段であつたが、義持に至ってその弊害と濫用の極に達した。

花営三代記によると、将軍義持及びその世子が、如何に風呂御成の醜聞を流したかが知られるので、左に二三だけを抄出する。

応永三十年六月三十日、御所様(義持)公文所へお成、それより春日風呂へお成、佳例なり。

七月七日、風呂へお成、御方御所様のお供。

九月十八日、大御所風呂、富樫介満春亭御風呂なり。

十二月廿四日、御風呂お成、一献あり(問上)

―これで見ると、殆ど毎月のやうに風呂お成で、女房狩りをやったやうである。これでは将軍の信用が地に堕ちるも道理であつて、且つ上を見倣ふ下々の風呂の風儀が乱れるなどは、寧ろ当然のこととも言へるのである。