七、銭湯の始めと湯女の跳梁

僭上好きな足利氏が公方となり、天下の政権を握るやうになつてから、風呂をたてて人に馳走することが流行するやうになつた。

これには禅学の普及や、茶会の流行などに関係を有してゐることは勿論であるが、兎に角繁華の地には湯屋の営業者が現はれ、湯屋には浴客に媚を売る女性が群れ居るなど、我国の温浴史上において注意すベき一時代を、展開するに至つたのである。太平記に、

今度(正平十五年)の乱は、併しながら畠山入道の所業なりと、落書にもし、歌にも詠み、湯屋風呂の女童部までも、持てあつかひければ、畠山面目なくや思ひけん、暫く虚病して居たりけり。

とあるのは、京都に湯屋渡世の者があつて、然も湯女が居たことを証示してゐるものである。

湯女の跳梁が、風呂の流行に伴うてゐることは、改めて言ふまでもないが、伝説によると、湯女の起りは、鎌倉期の建久年間に、良観上人(この僧に就いては前に述ベた)が、熊野権現の霊夢を蒙り、摂津有馬の浴湯を再興した折に、薬師如来の十二神将に象りて十二の坊舍を設け、坊毎に老若の二婢を置き、浴客の世話をさせた。

老婢を「大湯女」と称し、更にカカとも呼び、若婢(十三四歳から十七八歳まで)を「小湯女」と云ひ、各々通り名を定めて代々世襲したとある。

猶は有馬町の口碑によると、昔は、湯女は白衣に緋の袴を着け、歯を染め眉を描き、浴客の座に侍して琴を弾じ、今様を謠ひなどして徒然を慰めるのを業とし、且つ此の地の産主神の下に産れた者でなければ、湯女となることは出来ぬ習ひとなつてゐたと伝へられてゐる。

併しながら、是等の伝説や口碑は常識から見るも信用の出来ぬことで、何事にでも無理に勿体をつけたがる贔屓の引倒しであつて、何等の根拠のあるものではない。良観上人が有馬を再興したことは事実としても、湯女がそれから始まつたとは信じられない。

昔の湯女が弾琴奏舞したのは事実であらうが、白衣緋袴したとは考へられない。殊に、此の地に生れた者でなければ、湯女になれぬとは、後世の株とか組合とかの思想であつて、決して古い制度とは思はれぬ。

有馬の湯女は、開浴と共に発生したものと見るのが穏当で、然も古くから、娼婦性を帯びてゐたものとするのが正当である。