我国の温浴史の権威である中桐確太郎氏の話によると、我国の蒸風呂には二つの異つた形式が行はれてゐて、第一は、京都に近い八瀬の篭風呂式のものであつて、これは現在でも各地に行はれてゐる蒸風呂―浴室を戸棚のやうに造り、下に菰を取いて湯気の通ずる仕掛とし、浴客は小桶に清水を入れて顔を冷しなから横臥するものであるが、第二は瀬戸内海から、滋賀県の長浜辺まで行はれてゐる蓋覆式とも云うベき不思議なものである。
即ち湯槽も浴法も、普通の民家などに見るものと変りは無いのであるが、ただ変つてゐるのは、湯槽へ身体を入れると、菰で拵へた天蓋のやうなものが、上からすつぽりと被さる仕組になつてゐることである。従つて湯気が籠り、馴れぬうちは非常に息苦しく感ずるものの、発汗が十分に行はれるの で、浴後は一段の爽快を覚えるさうである。
そして、八瀬を横臥式と云ふことが出来れば、長浜のは立体式とも云ふベきものであると語られたことがある。
八瀬の蒸風呂は、伝説によれば、天武天皇が壬申の戦ひの折に、矢を背に射られた地なので矢背と称したのが地名の起りであつた(後に今の文字を用ゐるやうになつた)。
その矢傷を御治療なさるたあに蒸風呂にお入りになつたと云うてゐるが、これは伝説であつて事実ではない。
殊に八瀬の蒸風呂は、古くは黒木を、後には生松葉を焚くので、効験が著しいと言はれてゐるが、これも果して事実であるか否か疑ひなきを得ぬのであるが、それにしても、八瀬の蒸風呂が大昔から有名であつたことは紛ふ方なき事実である。
それと同時に、考へて見なければならぬ問題は、かうした横臥式や立体式の蒸風呂は、我国の発明にかかるものであるか、それとも之に反して外国から輸入されたものか、外国のものとすれば、その国はどこからか。さらに立体式のものが、瀬戸内海と長崎だけに行はれてゐる理由は何を意味するかと云ふが如き、種々なる問題が湧き起つて来るのである。
併しながら、かうした大きな問題はここに尽せるものではなし、よし尽せるとしても理屈に傾くので、今はそれには触れぬとして、問題を提出して置くに止めるとする。