五、浴場の湯女は性的職業婦人

鎌倉期に入ると、各地の温泉場に旅館のやうな営業者が生じ、殊に有馬とか道後とか云ふ世に聞えた土地では、家毎に三人五人づつの湯女を置いて、客用を便ずるまでに発達した。そして、此の湯女が性的職業婦人であることは言ふまでもない。京都の公卿であつた藤原光経の歌集に、

貞応二年十月二十六日、津の国、小松と云ふ所に、湯浴みんとて、まかり侍りしほど、馴れあそびし遊女に、十一月九日小屋野より別るとて、

旅人のゆききの契り結ぶとも

忘るな我を我も忘れじ

とある。遊女とは、即ち此の種の湯女を指したものである。

そして、斯く各地の温泉場が繁昌すると同時に、俗化して、営業者まで出すやうになつたに就いては、凡そ二つの大きな理由が存じてゐたのである。第一は温泉に往くことを遊楽として、身分の有る 者や無い者までが出かけたことで、稀には、神社や寺院へ参詣する信心の傍ら、温泉で遊んで来る者などもあり、熊野信仰の隆んであつた紀州路の湯峰温泉は、我国の驪山と云はれるまでの享楽所となつたのである。

第二は、毎年のやうに各地に起つた戦争の影響である。温泉と戦争と関係あらうなどとは、現代の常識から云へば不思議のやうに考へられるが、昔は戦争で負傷した勇将猛卒は、その金創を治癒するには、医術の発達せぬ時代とて温泉に浴して、自然の恢復を多少とも促進させるより外に良法が無かつたのである。

殊にそれが戦敗者である場合は、創痍の癒ゆるまでは敵に覚られぬやう、身を隠すベき必要も伴うてゐた。此の両者を兼ねてゐるものは温泉場である。温泉の在る所は、山の奥か海の端である。風致においても隠れ家としても、さらに静養所としても理想的である。従つて、負傷せる将卒が、好んで入浴したのも全くこれが為めである。就中、京都に近い有馬、宝塚、遠くは道後、別府などは、戦争があれば絶えず是等の浴客で満たされてゐた。

そして是等の浴客は、その悉くが女好きで、酒好きである上に、然も生命知らずの者だけに、浴場の世話なり浴客の介抱なりを勤める女を、征服せずに置くベき筈がない。

否征服される迄もなく、浴場主の方で気を利かし、是等の要求に遣漏なきやう湯女を準備してゐたに相違ない。

殊に当時にあつては、遊女の一名を「道の者」と称したほど各瑞を渡り歩いた者もあつたので、女性の方から出稼ぎに押しかける者もあつたに相違ない。加賀山中温泉のシシ、越後湯谷温泉のヒサクと称するものなどは、共に古い湯女の名残りを、その名前に留めたものと考へられる。

参考保元物語によれば、源為朝が生捕られた場所は湯屋であつて、温疾のために入浴してゐた油断を、踏み込まれたのであつた。佐藤忠信が、契つた湯女の変心により斬り死にしたのも、吉野の山中で負うた金創治療で、湯屋に隠れてゐた為あである。

後世の出来事ではあるが、明智光秀の重臣であつた斎藤利三が、江州堅田の温泉宿で捕縛されたのも、山崎の合戦で負傷しての入浴中であつた。川柳点の、「睾丸をつかめつかめと長田下知」とあるの は、独り野間で憤死した源義朝が専らにすベきものではなく、前にも後にも浴場の捕り物は、決して珍しいものでは無かつたのである。尚ほ有馬の湯女や、江戸期の湯女に就いては後段に詳しく述ベる 考へである。