四、仏教の渡来と温浴の発達

我国の温浴法と浴場の設備は、仏教の渡来と僧侶の済生事業の施設とによつて、非常なる発達と進歩を致したのである。

仏教には、印度で行はれた入浴の方法が詳しく説いてある上に、支那へ留学した僧侶が、彼地で知つた浴場の設備を我国に移し、然もそれを、布教宜伝の手段として庶民にすすめたものである。

跳に畏きことであるが、聖武天皇の光明皇后が大浴室を建て、千人風呂と称して庶民を入浴させられたのは、仏教の感化に由ることは言ふまでもない。そして後世のことではあるが、鎌倉時代に良観 上人が、奈良と鎌倉に常施院と悲田所とを設け、薬湯を以て病者を救護したことも、また有名な物語として人口に膾炙されてゐる。

僧侶によつて宜伝された温浴の効能は、単に入浴の方法とか浴場の建業とか云ふだけにとどまらず、その浴場の種類にも幾つかの新しいものを加へるに至つた。即ち薬剤を用ゐた薬湯、食塩または潮水を用ゐた塩湯などは、その主なるものであつて、温浴は健康を養ふよりも病気を癒すものとして、国民一般から愛用されるに至つた。

殊に、奈良朝から平安朝へかけての僧侶の活動は、山間にある温泉を利用して布教し、海辺の潮風呂をすすあて宜教したので、これが原始神道の身契の信仰と結びついて、益々浴場を発達させるやう になつた。

併しながら、これを営業とする者は無く、後世の湯屋渡世は、迥に昨代の降つた室町期の初め頃から行はれたものである。それまでは専ら寺院の摂待か、個人の経営に由つたものである。

そして―

古く行はれた風呂の種類も様々あつたやうであるが、その中でも知られてゐるものは、第一は板風呂とて、上下左右とも板で囲ひ、下で湯を沸し、湯気に当る後世の蒸し風呂式のものと、第二は伊勢 風呂とて、湯槽の中には湯は無く、同じく下から騰る湯気で蒸すのであるが、これは馴れぬと非常に苦しいものだと云ふことである。

第三は釜風呂とて、今でも田舎で見かける五右衛門風呂に似たものであるが、大体において蒸風呂式のものが広く行はれてゐたのである。