七、一つ鍋の飯を夫婦して食ふ理由

婚礼の折に、「嫁子の高盛」と称し(土地によつては鼻突飯とも云ふ)て、飯椀に飯を杉形に盛りあげたのを花嫁の前に据ゑるが、三々九度の盃が済むと、媒人が此の飯を別の椀に取分け、新郎新婦に食べさせることは殆んど全国的に行はれてゐて、物固い土地になると、盃が済んでも、これが済まねば式が終つたのではないと言ふ所さへある。

そしてこのことは、我国に於ける黄泉戸喫と云ふものの面影を伝へたもので、俗に一つ鍋の物を食うた仲と云つてゐるやうに、これで新夫婦は、肉体的にも精神的にも結合して離れぬと云ふ聖餐式なのである。然るに世間には随分と豪傑な花嫁もあるもので、私の村には、此の高盛のお代りをして二杯食つた婦人があり、その人は死ぬまでお高さんと云ふ綽名で呼ばれてゐた。

更に此の聖餐式も、亦土地によつて奇抜なことが行はれてゐる。群馬県伊勢崎町附近の村々には、昔から大根祝儀と云ふことがあるが、これは婚礼当日に近隣の重立てる者が五名来て、座配人と称して万事の世話をするが、その中三名の者は一室に閉ぢ籠つて、大根で××××に擬したものを作り、祝言の盃事の折に島台と共に座敷へ出す。

その際、座配人の一名が声高に「お肴」と言ふと、媒人がそれを受取り、「お若衆様、誠に結構なお肴、目出たく頂戴致します」と挨拶を述ベ、座敷の中央に直し、式を済ませ、床入りの際にはそれを夜具の上に載せ置き、翌朝になると、此の大根を刻み、朝飯の汁の実にして新夫婦に食わせると云うことである。

それから婚礼の夜に、男女の物を用ゐることは全国的に行はれて、取結びの盃の席に無くてはならぬ島台は、実にこれを象徴したものである。

京都市の上流社会に行はれた床盃の下物は、小さな三段組のお重であるが、此のお重の上段には高砂の尉と媼、二段には男女の標物、三段には赤児を巻蒲団にしたものを入れるが、これは悉く蒲鉾、山ノ芋などで作り丹青で彩つてある。これが島台の古い相なのである。

備後の福山地方では、明治の中頃まで、大根や人参で鶴亀と××を作り、晴れの膳の上に載せたと云ふ。徳島県の名東郡や、奈良県の磯城郡にも、亦これと同じ習俗が行はれてゐた。