五、花嫁を御新造と云ふ理由

昔は結婚が成立し、いよいよ新郎新婦が共同生活を営むやうになると、先づ孀屋とて、新夫婦の起臥する家を建てることになつてゐた。これは、夜床の穢れを非常に恐れた、俗信に由来してゐるのである。

昔の人は、臥す所と寝る所とは厳重に区別して置いたが、現今では、臥すと寝るとが同じものにな つtえしまつたが、古くは臥すは眠ること、寝るは交ることと定まってゐた。かうした俗信から導かれて、父母が許し、社会が認めた結婚であつても、夫婦が合衾する場合には、その時と所とに関しては、種々なる禁忌があつて、今から考えると信じられぬほど神経過敏であつた。

降りつづく五月の霖雨に対しては、「雨愼」と称して、その月の間は夫婦でも子孫繁昌の行事が禁物であつた。それ故に、昔は五月に結婚することは絶対に無かった。

今に庚申の夜に早寝を禁じ、大年の夜を語り明すのは、古き禁忌の名残りを留めたものである。然るに身分の高い者や、蓄財有る者なれば、孀屋を建てることも容易であるが、さうで無い者には、少少厄介な事なので、かかる場合には、家屋内の一部屋を新夫婦の起臥する場所に充てたものである。

高知県の町村では、近年まで、どんな貧乏人でも妻を迎へようとすれば、その為めに夫婦が寝られるだけの家を建てる風俗があり、徳島県三好郡山城谷村でも、昔は妻帯するには棟を分けて家を拵へたもので、今に若妻を「御新造」と云ひ、年老いた女房を「奥さん」と称するのは、此の慣習から来たものだと言つてゐる。

壱岐国では早婚であつて、男女とも十五六歳から婚約し、二十歳前後で結婚するが、吉原村地方では、男子は妻帯しても、家督相続せぬうちは自宅に寝ることが出来ぬ習ひになつてゐるので、若夫婦は毎晩他家へ泊りに行くさうだが、此の風習なども、一面から見れば、古く孀屋に起臥したことが、かうした具合に変化して残つたものと思はれる。