五、旗本の面汚し

大久保金十郎は、神田駿河台で二千七百石を食んだ旗本の長男と生れ、十九歳のをり、大奥の女中に誘拐されて、女護ノ島で半月ほど暮した。

武術に長じてゐたので、幕末の騒ぎには函館に往き、榎本武揚に属して五稜郭に立籠り、奮戦したが、遂に降人に出で、江戸へ帰つた時は、世は明治と改つてゐた。

金十郎の留居の間に、父親が家財や有金を整理して、品川に住んでゐた出入の魚屋に預けてあることを知り、そこへ尋ねて往つて荷物を受取り、それを馬三十七匹に積んで、旧領地である美濃の岩村宿を志し出発した。

日蔭者同然の旗本の荷物を、遠く美濃まで運ばうとする馬方は、腹に一物も二物もある者ばかりであつた。中仙道の長亭短駅を送り迎へするうちに、昨夜は三匹見えなくなつた。今日は二匹姿を隠したと云ふ有様で、目的地の岩村へ着いた時は、十七匹に減じてしまつた。

金十郎は、家財は減つても有金に手がつかなかったので、旧領地の者からは、「殿様」と尊敬されつつ、別に不自由もなく暮してゐた。世話する者があるので、妻を迎へ、その妻のすすめで、金貸をやつたが、妻によからぬ風説が立つたので離別し、世間も静かになつたので、明治三年に懐しい東京へ戻り、旧土佐藩の山田主馬の姉竹子を妻にもらひ、麹町二番町に新しい家庭を持ち、小金のあるところから、為すこともなく日を送つてゐた。

葉桜の毛蟲を焼かうと、金十郎が庭へ降りると、塀の外で、女中のお文が一人の男と話してゐる声が聴える。聴くともなしに耳を聳てると、何か家内の竹子に言伝を頼むことらしい。金十郎は、忍び足して戻り、親の代から使つてゐた仲間上りの幸作を呼び、塀外にゐる男の後を尾行して見ろと命じた。

やがて、二時間ほどたつと帰つて来て、彼は猿若町の、芝居に出てゐる嵐冠八と云ふ、役者の男衆であると報告した。

「それで読めた。どうも家内が新婚早々から、芝居見物に往きたがるのが腑に落ちなかつたが、これで理由は判然した」。金十郎は幸作にも云ひつけ、自分も妻に覚られぬやう、段々と調べて見ると、竹子がまだ某大名の奥勤めしてゐる時分から、関係してゐたことまで明白になつた。

金十郎にとつては、さうした不行跡を押隠して嫁して来た竹子の心持を、憎まずには居られなかった。殊に嫁した後までも、その不義を続けてゐるとは、皮せても枯れても武士として、忍ぶことの出来ぬ侮辱であつた。

「犬のやうな女め。成敗して、顔に塗られた泥を洗はねばならぬ」

と、金十郎は幸作に旨を含めて、機会を窺つてゐた。

袷では朝夕が寒くなつた初冬の或日、竹子は実家に往くとて、女中を連れて家を出た。金十郎は「今日こそは」と、支度して、幸作を従へて後を追うた。

竹子らは途中で駕籠に乗り、浅草の雷門で降り、そこで女中に別れ、ただの一人で仁王門まで来ると、牒し合せてあつたものか、男が待つてゐた。それが嵐冠八であることは云ふまでもない。二人は肩を並べて何か話しながら、二天門を抜けて馬道を横ぎり、竹屋の渡しから隅田川を越えて、小倉庵(青木某と云ふ大泥棒が経営してゐた有名な料理店)へ入つた。金十郎主従も、同じく小倉庵に入り、女中に頼んで、冠八の隣り座敷に席を占めた。

襖を隔てて二人の話す声― 盃洗で猪口を洗ふ音も途絶えたので、金十郎は手早く身支度をし、大剣の鞘を払つて次の間ヘ躍り込んだ。

「おのれ!」と叫びざま、秋水春風を斬ると思ふと、冠八の首はコロリと落ちた。つづいて、妻を斬らうと上段に振りかぶると、竹子は、何にも云はず、怨めしさうに、凝と金十郎の顔を下から見あげたその凄さ。それは生涯眼についてゐて忘れることが出来なかつたとある。

金十郎は両手に男女の首を提げ、小倉庵の番頭を招いで仔細を語り、即日検視を受けたが、姦夫姦婦の成敗とて無罪。直ちに幸作を走らせ、油樽を求めて竹子の屍体を納め、両国回向院の無縁墓地に葬つた。

然るに、竹子の弟主馬から苦情が出た。姉の不埒も手打にすれば罪は消える。武士の女を犬猫同様に油樽に押込め、無縁墓地へ棄てるやうに埋めるとは作法を缺いてゐる。姉の敵と思ふから、左様承知せよとのことであつた。

そこで金十郎も恐れをなし、敵を討たれては大変と、幸作をつれて再び美濃の岩村に往き、姓名まで改めて逼塞した。後に岐阜県の県会議員になり、明治四十年に永眠した。姦夫姦婦を殺した折の錦絵が二枚売り出され、今に好事家に珍重されてゐる。