江戸日本橋、本材木町五丁目の材木問屋、吉田屋九兵衛が持つてゐる軒隣りの空家へ越して来たのは、中村玄益と云ふ本道(内科医)の医師であつた。
医術に長じ、弁舌においても爽かであつたので大いに流行し、二三年のうちに財産を造り、若党や草履取なども多く抱へ、町医としてはかなり羽振をきかせてゐたが、玄益の傷は持つて生れた短慮一徹であつた。
玄益は、妾のお絹が若党の惣吉と、不義を働いてゐることを疾つくに気づいてゐたけれど、何んとして腹癒をしてやらうか、その手段が胸に浮ばぬので、いつもの短慮にも似ず、しばらく事件を伏せて置いた。と、或日のこと、同じ若党の佐蔵が用達から帰つて来て、外出先で聞いた話だとて、
「堀ノ内のお祖師様へ往く道の鳴子村の蒔絵師の女房が間男したのを本夫が見つけ、両人を近所の寺内へ連れ往き、散々非道の罪を責めた上、持つて往つた刃物で、………扶り取つて殺してしまつた。村中の騒ぎとなり、検視を願つたところ、お掛りの役人の出張が二三日も遅れたので、両人の屍体をそのままにして置くと、何と不思議にも、薮や林にゐる数十匹の蛭が女の疵口に取付いて噛つてゐたので大評判である」とのことであつた。
玄益はこの話を耳にすると、「ウム、己もさうして遺恨を晴してやらう」と考へつき、直ぐに妾のお絹を呼び、丸裸にして庭の松の樹に縛りつけ、更に玄関脇で、薬研で薬をおろしてゐた若党の惣吉も同じやうに縛りあげ、佐蔵や他の草履取二人にも手伝はせて艾を持つて来させ、それをお絹と惣吉のに××へ山のやうに盛りあげて、線香の火を点じた。
焼かるる両人の苦しみ―大声を挙げて、泣き叫ぶのを、玄益はさも心持よささうに笑ひながら打眺め、
「恩を仇で返す人でなし、苦しむのは当り前だ」と、なほも三人に手伝はせて艾を補ひ、遂に両人を焼き殺してしまつた。玄益は若党を走らせて、妾お絹の親を招き、急病て死んだと偽り、屍体を引取らせようとしたが、疵があるので承知せず、直ちに町奉行へ訴へ出た。
検視が来て、両人の遺体を視て打ち驚き、世にも稀なる惨忍の殺し方と、玄益をはじめ、手伝つた三人まで投獄されたが、それにしても、壁隣の家主九兵衛が昼中に泣き喚く騒ぎを知らぬとは、不覚でもあり不届でもあるとて、同じく牢へ打ちこまれた。
九兵衛は聞えた物持とて、親族一同が大いに驚き、その筋の役人達へ、それぞれ袖の下を贈つて漸く出牢したが、この費用だけでも三千両の大金を要したとある。間もなく玄益は、仁術を旨とすべき医師にあるまじき所業とて獄門、手伝ひの三人は追放に処せられた。