越中立山の地獄谷へ行けば、いつでも死んだ女房に会へると云ふ迷信は、かなり古くから広く行はれてゐたので、愛情の深い若い亭主達が四方から集り、亡霊に手向ける経文で、谷が埋まると云ふ繁昌であつた。
これは立山の麓の旅人宿の奸策であつて、幽霊宿に若い女を抱へて置き、夜中に地獄谷へ遣り、亡霊だと云つて遇はせ、宿科や香華料を巻きあげる趣向であつた。
お蔦は此の幽霊宿の抱へであつたが、立山神社の楽人である京谷友之丞と、人知れぬ契りを籠めてゐた。文化三年の春も老いて、山の桜も若葉となる頃、中国辺の浪人で、塩川当吾といふ剣客者がぶらりやつて来て、立山見物に二三日逗留するうち、このお蔦を見染めて横恋慕をしかけた。
「身共の自由にならなければ、幽霊宿の詐略を代官所に訴へ、お前も宿主も牢へ打ち込んでしまふぞ」
さういふ手詰の談判には、お蔦も全く困却してしまつた。
二度三度は言ひ脱れたが、万策尽きて、お蔦は友之丞との交情を打明け、
「あの人さへなければ、お心に従ひませう」と、背水の陣を張つた。お蔦の考へでは、自分のために宿主ばかりでなく、旅人宿一体に迷惑をかけるのも心苦しいし、それによもや友之丞を殺してまで、この横恋慕を押し通しはせぬだらうと、思案してのことであつた。
立山に低く懸つた雲の脚が、雨を○した宵であつた。当吾はいつになく落着かぬ素振でやつて来て、「今夜こそは寝て花やらう」と、お蔦の手をとるのを、
「まあせはしない、風呂からあがつて」と、無理に風呂へ入れ、お蔦は当吾の脱いだ衣類を片づけると、袴の裾にベツとり血糊。
はつと思ひながら傍を見ると、落ちてゐる手紙―眼早く読むと、それは友之丞の朋輩である川瀬久馬から、今宵手引して友之丞を殺させると云ふ文言。お蔦には、久馬のその手紙にも思ひあたる節があるので、咄嗟の間に、「当吾も久馬も、妾のためには夫の敵」と、覚悟を極め、その夜、当吾を酒で盛りつぶし、熟醉した油断を見て刺し殺し、久馬の許に行き、彼を誘うて加賀の松任へ駈落した。
落人の侘び住居―お蔦は化鳥(淫売婦)となつて久馬をたて過すうち、お蔦は梅毒にかかり、久馬もそれに感染してしまつた。
「お前さん、この薬は和蘭渡りの秘法だと云ふから、これさへ飲めばきつと癒るよ」と、日に三度づつ久馬に飲ませたが、病気は癒るどころか、久馬の顔も手も、足も次第に腐つてきて、僅かに一ヶ月ばかりで、見るも浅間しい姿となつて悶死してしまつた。
薬と云つたのは、実は青蜥蜴の黒焼に、蠅取紛を交ぜた毒であつた。
お蔦は何処へ身を隠したか、消息を絶つたが、数年後信州善光寺の門前で、鉦をたたいて袖乞してゐた尼が、お蔦によく肯てゐると云ふ者があつた。