六、墳墓発掘にからまる怪談

明治維新の三傑の一人と云はれた参議木戸孝允は、明治十年五月に京都で死んだので、その遺骸は洛東霊山に葬つたが、二年ほどたつと、不思議な噂が世上に立ち始めた。それは、

「木戸公のお墓へ泥棒が入つて金目の物を盜み出した」

と、云ふ容易ならぬ墳墓発掘の事件であつた。

京都府の警察部では、この噂を聞き込んで、直ちに掛り役人を遣つて墓地を調ベさせたところ、月日のたつた為めか、表から見ただけでは何の変りもないが、さう云はれて、注意して見ると、何となく土を動かしたやうにも思はれるので、油断なく犯人の捜査に努めてゐた。

すると或る日のこと、警察部の刑事が、挙動不審の一人の若い田舎者を引ツ張つて来た。携へてゐる風呂敷包を解いて見ると、香炉、花立などの仏具が出たので、殊によると、墓を発いた犯人ではないかと、厳しい訊問を試みた。

刑事「お前の生国は何処か」

若者「私は宮城県宮城郡花巻ヶ浜の者です」

刑事「姓名及び職業は‥‥」

若者「永島多作と云ひ、農業を営んでゐます」

刑事「年齢は‥‥」

若者「十九です」

刑事「当地へ何用があつて来たか。京都見物か、それとも他の用事か」

若者「別に用事があるでもなく、また別段に見物と云ふでもなく、ただぶらぶらと出かけて来たのです」

刑事「それでは一定の目的なくして、三百里の遠いところをやつて来たのだな」

若者「さうなんです。あんまり世の中のことが馬鹿馬鹿しいので、それで飛び出したのです」

刑事「何がそんなに世の中が馬鹿馬鹿しいか、それを云つてみろ」

この多作と称する若者の陳述によると、それは如何にも馬鹿げきつた事実であつた。

多作の生れた土地の習慣として、結婚する場合にはその花嫁に対し、媒人が初夜権を有してゐて、俗にこれを「口取」と云つてゐる。多作も良縁があり、同村の大山高吉の娘お文を嫁に迎へることになつたが。媒人の幸右衛門が、村の古い仕来りだからとて、初夜権を行はうとした―と、云ふのである。

多作は、いがに土地の習慣とは云へ、明治の開化の世に、そんな馬鹿なことがあるものがと異議を 唱へたが、容れられず、大昔のままに式を挙げると、如何なることにや、媒人も花嫁も、その場で頓死しえしまつたと云ふのがその概略であつた。刑事も余りの馬鹿話に、思はず失笑したが、

刑事「それでは何故、そんな仏具を持つてゐるのか」 若者「枕こそ交さぬが、妻と定まりや憎くもなし、仏具でも調へて、供養してやらうと思つて買つたのであります」

多作の嫌疑はこれで晴れて、放免された。

木戸公の墓を発いた犯人は、明治十三年三月に捕縛されたが、それは墓守

の非人で

あつて、盜んだものは錫製の三宝と徳利の外に、遺骸に着せてあつた絹の衣類であつた云ふことだ。