安芸の宮島には、昔から神秘な習俗がある。不浄を嫌ふこと極端で、島では死といふ語さへ用ゐなかつた。
島の人が死ぬと、「広島へ煙草買ひに往つた」と称し、その夜のうちに屍体を舟に移して、対岸に葬るのを常とした。神威の強かつた折には、島で出産することすら許されなかつたが、明治になつてからは、此の禁も寛かになつた。
清吉とお霜は、共に旅館津ノ国屋の雇人であつた。それに二人とも、対岸の二十日市の生れで、幼い時からの学校朋輩であつたが、清吉は身体が弱いので、力業の農業には不向のため、ここへ来て、帳附やら客の世話やらして日を送り、お霜は継母に憎まれて子守に出され、漸く長じたので、今は女中として働いてゐた。
村も同じ、境遇にも似たやうなところがあるので、大勢ゐる雇人のうちでも、特に二人は仲よしであつた。清吉が、着物の綻びをお霜に縫つてもらへば、お霜は父親への手紙を、清吉に代筆してもらふなど、他の朋輩から羨まれるほどであつた。
しかし、日蔭の豆にも花が吹くとやら、二人は、何時が、恋をささやくまでにすすんでゐる。
旅宿商売は人の出入りが多い上に、夜は遅く、朝は早いのが常であり、それに大勢の雇人が居ることとて、如何に思ひが募つても、家ではしみじみと話すことも出来ぬのが悲しかつた。
明治三年の四月十五日、それは宮島の桃花祭で、夜の島の賑ひはまた格別であつた。清吉とお霜はこの賑ひにまぎれて、そつと暖簾をぬけて、宮島の奥の方へと姿を隠した。
「お霜さん、お前さんはこの二三日、何だか浮かぬ顔つきをしてゐるが、心配事でもあるのかね」清吉は、物柔かに問ひかけた。
「清さんには、さう見えゐかね。実は私の思案に余ることが出来たのよ」
それは水番み百姓であるお霜の家が借金に苦しみ、家作も宅地も、人に渡さなければならぬやうになつたので、背に腹は換へられず、お霜を宿場女郎に売つて、この急場を免れようと、その相談に、四五日前覩爺がやつて来たことを、お霜は涙ぐんで物語つた。
「私も本当のおつ母さんならば、かうした苦労もあるまいと思ふに、繖しい仲である上に、お父さんはすつかり捲かれてゐるんだから‥‥」その次の句は涙に咽せて、よく聞きとれなかつた。清吉は、お霜の肩に手を乗せながら、慰めの語をかけてやつたが、お霜は何時までも、顔に袖を当でたまま泣きぬれてゐた。
その翌朝であつた。宮地の奥の森の中に、若い男女が抱き合つて死んでゐるのを、山廻りの者が見 つけた。それは云ふまでもなく、清吉とお霜の二人であるが、神の霊地を穢した天罰として、抱き合つたまま放れることが出来ぬのであつた。
「何という業晒しだ。恥知らずの悪戯者め。何時までもさうして、笑ひものになれ」と、島の人達は気の毒と云ふよりは、神威の霊験なるに恐れをなした。