水戸の布袋市と云へば、天保頃には人に知られた博徒の大親分であつた。
その一乾分の「島帰りの小平」は、上州赤城下の生れで元は大前田一家の者であつたが、喧嘩兇状で八丈嶋へ流され、三四年島で暮すうちに、徳川家にお目出度があり、特赦になつて帰つたので、綽名を島帰りと呼ばれるやうになり、水戸へ流れ込んで、布袋市の客分から身内となり、今では代貸元として、浪の花散る磯浜に住んでゐた。
磯浜、大洗、平磯は、太平洋に臨んだ三浜として知られ、漁場であるだけに、博賭も猖んに行はれて繁昌したものである。
殊に水戸藩主の方針として、遊女町は繁華の城下町に許さず、大洗とか潮来とかいふ辺鄙な所に設けたので、どこの茶屋小屋にも、怪しげな女性が三人四人づつ抱へられてゐた。
小平が馴染を重ねてゐた柳家のお君は、「紋帳のお君」と云はれた莫蓮者だが、土地では姐御株でよく客があつた。
紋帳の由来は、お君は関係した男の定紋を身体中に彫り物をしてゐたからで、お君が酒に酔って片肌ぬぎ、啖呵を切る時に、雪のやうな背中から、腕へがけて散し彫りの紋を見ると、朱に、墨に、紫に、とりどりの色が冴えてゐて、実に見事なものであつたと評判されてゐたものなのである。
島帰りの小平に、紋帳のお君―それは、恋の闘士としても、よい取組であつた。
「小平さんは男振りはよし、金遣ひは綺麗だし、話は上手だし思ひ遺りもあるし、博奕打ちではある が、客にしても面白いし、情夫としても心強いが、床に入って二人ぎりになると、前に関係した男の噂―それも根堀り葉掘り、細かいことまで聴かれるには本当に困つてしまふ。あれさへなけりや全く申分の無い人だが、あれが小平さんの悪い病気」とお君は小平を帰した後で、いつもかうした思ひに耽るのであつた。
実際、小平のやうに、長い草鞋を穿きつづけて旅から旅を股にかけ、幾十人といふ女を手掛けた者にとつては、尋常の方法では、興味が湧かぬのであつた。
それに、博奕打ち仲間の言ひ伝へとして、一人前の男になゐには、「皮癬七たび梅毒三度」の体験を要すと云はれてゐるだけに、小平の体には毒気の多かつたことも勿論である。
お君は、小平を愛してゐたのである。彼の心持が日に荒んでゆくことに、限りない同情を惜しむ者ではなかつた。殊に小平が、賭場の金を自分のために遺ひ込んで、覩分の手前、気まづくなつたことも承知してゐる。小平から、 「お前と分れては、己は一日も生きてゐる気はしない」
と、しみじみ言はれると、自分も死んでもよいとさへ思つたことがある。小平がよく謠ふ「悪縁か、因果同士か敵の末か、添はれぬ人ほど切れられぬ」。さういふ小唄まで思ひ出されて、生きるに疲れきつたお君の心を、ぐんぐんと暗い方へ引込んで往くのであつた。
小平が賭場の間違ひで、庄屋の小旦那を切つたので大騒ぎとなり、お君のとこへ暇乞に忍んで来た時、お君はふらふらと、小平と手をとつて柳家を出た。
「私も随分罪を作つた。小平さんの道連になつて罪亡しをしよう」
大洗の波に打揚げられた両人の屍骸は、死んでも放れまいと、双方の足と手が、男帯と女の扱紐とで縛つてあつた。