三、操を棄てて操を立てた遊女お登和

長崎市から郊外の茂木村へ往く旧街道の右手の山路、鶴鳴女学校の上の方に旻徳坂と云ふがあり、ここに唐人塚とて、日支の男女が情死したのを埋めた墓がある。

それは、元禄の初めであつた。

京(島原)の女郎に江戸の張を持たせ、丸山の夜具を着て、新町(大阪)の揚屋で遊んで見たいと、粋人の憧れの一つとなつてゐた―その長崎丸山廓の筑後屋に、お登和といふ遊女がゐた。才色の勝れてゐた上に、夜毎に変る浮れ男に対しても心から覩切に尽すので、廓中でも、「気立よしのお登和さん」と云はれて、評判の売ツ妓だつた。彼女の客に、旻徳といふ唐人があつた。

当時の長崎の繁昌は、和蘭陀屋敷と、唐人尾敷とで行はれた貿易のためであつた。丸山の遊女屋が、他に比類のない緞子や、呉絽の美々しい夜具を用ゐることの出来たのも、全くこの貿易の地元であつたからである。それ故に、唐人と云へば、福の神の申し子ほどにもてたものである。

旻徳は福建に生れたが、許嫁の宋錦女が結婚間際に死んだので、消すとも消しえぬ心火の悶えを忘れるために、貿易商の叔父を頼つて長崎へ来たのである。

住む所は変つても、変らぬのは恋の道である。旻徳は一夜、店の者につれられて丸山廓へ足を入れ、素見客に交つて歩くうち、筑後屋に見世を張つてゐたお登和を見るなり、電気にでも触れたやうに、急に足をとめて、

「あつ!宋錦だ。彼女に違ひない。肖てゐるといふよりは、宋錦そのままだ」

旻徳は格子に吸ひついたやうになつて、いつまでもお登和を見つめてゐた。

旻徳は故郷で死んだ許嫁に、異郷で会うた心持から、雨の夜も風の日も、お登和の許に繋ぐ足を運んだ。

お登和の才色に迷ひ込んでゐた者に、長峰奉行の下役を勤めてゐる赤井団七と云ふがあつた。お登和の心持が近頃目に見えて旻徳に傾いて往くことが、赤井には癪でもあり、嫉妬の種ともなつたのである。

「あの唐人さへ居なければ、お登和は己のものだ」と、幾度となく考へたものである。恰もその頃、長崎に贋金遣ひが現はれ、商家の被害は少くなかつたが、その詮議に赤井が当ることとなつた、「さうだ。あの唐人を贋金遣ひで挙げてしまへ」横恋慕に目の眩んだ赤井は、職権を濫用して旻徳を捕縛 し、日夜非道の拷問にかけて無理矢理に自白させ、遂に獄門の刑に処してしまつた。

お登和は旻徳が、そんな悪人でないことをよく知つてゐた。そして、このお処刑が赤井の計略に出たことも、それが自分を手に入れようとする奸策であることも知つてゐた。そして、深く心に決するところがあつた。

赤井は何喰はぬ顔をして、お登和の許に通つてゐた。お登和は金ゆゑとは云へ、深く言ひ交した男の敵に身を任すことは、斬られるよりも辛く悲しかつたが、これも死んだ旻徳へ、操を棄てて操を立てるためだと、観念の目を閉ぢて機会を待つた。

長崎名物の諏訪神社の宵祭の晩に、筑後屋の裏二階で男女の血に染まつた屍骸が発見された。それは、お登和が赤井を殺して自害し、旻徳の敵討ちした事が遣書で判然した。土地の者はこの志を憐れみ、唐人塚を建て、二人の後世を厚く弔つてやつた。塚に植ゑてある一本松が、今に無韻の悲歌を奏でてゐる。