二、女の幽霊を背負って歩く男

安永三年の秋も老いた或る宵のこと。先刻までの土砂降りの大雨が、いつの間にか、がらりと晴れて、鎌のやうな月が山の端から小屋を覗いてゐる。

「今の気狂ひ雨ですつがり濡れてしまつた。作造さん、誠に済まないが、着衣の乾くまで、休ませてくれませんか」声をかけながら若者の常吉は、建てつけの悪い小屋の表戸を開けて中へ入つた。

「おお、誰かと思つたら常さんか。さあさあ、早く来て囲炉裡で乾すがいい」と、作造は気軽に迎へた。両人は村は違ふが、顔見知りの仲だつた。

野州足利市外の行道山は、里に近いが、関東の高野山と云はれるだけあつて九十九谷の峰つづき、仏法僧の名鳥が棲む霊地である。作造は、この麓に小屋をかけて木挽を営んでゐた。

「それでは、少し採温せてもらひます」と、常吉が囲炉裡ちかくにぢり寄ると、作造の膝にもたれて転寝してゐる七つになる伜の庄助が急に眼を覚し、常吉の方を見るなり大声あげて、 「あれツ、お父ツあん、怖いよ。あんな恐かない顔して己を睨んでゐるよ。早くこの人を帰しておくれ」と、何が物に怯えるやうに、父の膝に顔を伏せて慄へ出した。

すると、勝手元の臼の側に寝てゐた犬のクマまでが、同じやうな恐ろしい物でも見るやうに、耳を立て、足を爪立てて吠えはじめ、常吉を目がけて噛みつくばかりの様子をしてゐる。

「何も怖いものはゐやしない。庄助も泣くんぢやない、クマも吠えるぢやないぞ」

作造は伜と犬を宥めるので、庄助も怖いもの見たさか少し顔をあげて、横目で常吉の方を見たが、またもや大声で、 「怖いよ、お父ツあん。血だらけな姉ちやんの顔が、己を睨めるんだよ」

と、以前にも増して泣いぢやくり、クマも頻りに吠えつづけるのであつた。

「血だらけな姉ちやんの顔が―」聴いた常吉の顔色はさつと真ツ蒼になつて、火に翳してゐた両手の指までが急に慄へ出したのが、夜目にも判然と見えるのだつた。

作造もただならぬ光景に、何が凶事でも起るのではないかと、恐れを抱いた。

「お民!成仏してくれ、己が悪かつた。勘弁してくれ。作さん、己は今日で三日三晩、幽霊を背負つて歩いてゐるのだ」常吉は呻くやうにかう云つたまま、がつくりと首をさげた。

「何んだと、幽霊を背負つて歩いてる。それは一体どうしたことか」作造の問に対する常吉の答はかうであつた。

村の畳屋の娘お民と馴染だものの、常吉には妻子まであるので夫婦になれず、若い者同志、いつそ情死してあの世で添ひ遂げようと四日前に行道山に登り、この世の名残りと最後の要求をしたところが、お民は拒んだ。

それは常吉の女に対するお民のせめてもの心遣りだと言つたが、実に死に直面してゐながらも、さうした淫らなことを考へてゐる常吉の気持が、悲しまれたのであつた。

常吉は用意の剃刀で、お民の咽喉を抉つたが、手元が狂ひ、それに剃刀が曲つてしまつて目的を果さず、血だらけになつて苦しむ女を、漸く細紐で締め殺したものの、その苦しむ有様に怯ぢて常吉は死に遅れてしまつた。それだのに、常吉はお民の遺骸を抱いて其夜を明したが、寒さと飢とに山を下り、知らぬ里で食を求めに出ると、何処へ行つても犬に吠えられ、子供に泣かれた。

「お民の幽霊が、私の背中に喰付いてゐるのですよ」語り終つた常吉の両眼には、悔悟の露が光つてゐた。

行道瀧の松の古木に、常吉の縊首した死体を見つけたのは、その翌朝であつた。お民の屍骸の腕や股の肉は、狼のために食ひ荒されてゐた。