武州金沢の領主、米倉丹後守信弘は、一万二千石の小禄ではあるが、二百六十余大名の一人として数へられた譜代であつた。
その大名の当主たる信弘が、明和四年の春、場所もあらうに吉原の土手で馴染を重ねた中万字屋の遊女誰ヶ袖と情死したことは、士風の腐敗した江戸期の三百年を通じて、前にも後にも一例しがない大名の情死として、世間を驚かしたものである。
信弘は殿様育ちの我儘者であつた上に、若年の頃から女色に耽り、身も心も極度にまで荒んでゐた。
当時の大名は、相続者を儲けずに死ぬと、その家は断絶する掟となつてゐたので、家来の方がら主人に不行跡をすすめ、気に入りさうな美人を次がら次へと、取代へ引代へ差出すのであつた。それ故に、大名と云へば大半までは、今の言葉で云へば、性的過度による神経衰弱にかかつてゐた。信弘の病気も亦それであつた。
奥方を迎へてゐたのであるが、どうしても奥に往く気にはなれず、偶々往つても奥方と枕を交はすことは全く無かつた。しかし、それが一種の精神病であるとは、信弘自身も知らう筈がなく、ただ奥方とだけ添寝が嫌で、他の女性とならば、連夜でも枕を並ベることを厭はぬ心持が分らなかつた。
奥方は老女達の指金で、殿様の気を紛らかすには音楽がよいとて、琴曲や踊舞を催しては、聴かせたり見せたりした。
或る時、義太夫節の「天網島」の炬燵の段を語らせた。信弘はこれを聴いて、治兵衛が女房のおさんに、「女房の懐には、鬼が棲むか蛇が棲むが‥‥二年といふもの巣守り」をさせて、小春とのみ媾曳したことが、何だか自分の心持に似通うて居ることを知つた。
その後、またまた義太夫節の「三勝半七」を聴くと、半七の遺書中に、女房お園に対し、一年以上も夫婦として暮しながら、「つひに一度の添臥もなく」とあるにもかかはらず、三勝との間には子まで儲けたことが、同じく自分の心持にそつくりだと考へたりした。
がうした変質的な信弘は、ますます奥方を嫌つて吉原へ通ふ中に、誰ヶ袖に深く打込んだが、いつかこの不身持が幕府の役人の知るところとなり、信弘は押籠隠居を命ぜられることとなり、誰ヶ袖と逢瀬の絶えるのを悲しんで情死を遂げたのである。
金沢藩の家老二名は、家事向き不取締とて切腹を命ぜられ、幕府の役人へは賄賂を贈り、信弘は急病で死んだことに取繕ひ、漸く国替だけで始末がついた。
かの旗本の藤枝外記が、大菱屋の遊女綾衣と情死して、 「君と寝やろか五千石とろか、何の五千石君と寝よ」
と、浮名を謳はれたのは、信弘の事件のあつた翌明和五年の七月である。