長崎には唐人屋敷があつただけに、商用で滞在してゐた支那人は少くなかつた。文政八年九月二十一日に、陳仁謝といふ支那人と、丸山の遊女錦山が心中した。支那人だけに書置に漢詩が認めてあ り、錦山は「から衣深きなさけの人にわかれ、永らへてなど褄をかさねん」と、三十一文字の辞世を詠んでゐた。然るに又もや、天保十四年正月十一日に、同じ長崎丸山の妓楼で陳陽達といふ支那人と 遊女初瀬とが心中した。これも男は持ち前の漢詩で、「語らんと欲して涙痕錦筵を濕し、紅顔の粉黛ただまさに憐むべし、千歳の一夢一時に尽き、空しく北(亡にこざとへん)山上の煙を作る」と遺書に配し、女は御国振りの「今の世の限りとぞ思ふそこゐより、湧きたつものは涙なりけり」と認めてあつた。似し此の遺書は双方とも、当時の好事家が偽作したものであらうとの噂がある。