心中の相手に、遊女や芸妓などの性的職業婦人が多いのは、その境遇から云ふも当然のことである。紀海音の「心中二腹帯」の八百屋半兵衛の妻お千代が、「心中といふ文字は流れの女に限りしと、昨日は他に思ひしに、今日は夫婦の身の上に」と言つたやうに、その過半数は売女であつた。然し世間が淫靡になつて来れば、素人の心中も余り珍らしくないまでに所々で行はれた。狂歌で有名な太田蜀山の記録に、文化元年五月六日の夜十六七の小娘が、二十余の男と隅田川へ投身して心中した。緋縮緬の帯で男女の足と足とが結びつけてあつた。女は向島小梅の名主の娘、男は百姓ともいふ、妻子持にて、妻臨月なり。深川霊厳寺に葬るに雑費二十両を要したと載せ、更に文政元年二月二十日に、浅草見付附近に心中があり、男は髪結で二十、女は女太夫で十六、白昼のこととて見物人多しと記し てある。昼日中、江戸の真ン中で心中するとは、かなり奇披なことである。それから安政年間に吉原新丸鶴屋で、玉川と雛次との二名の遊女が、二人の馴染客と四人心中したことがある。
これも余り類のない遣り方なので、当時、市中の大評判となつたさうである。