米倉丹後守とて、二千石を領した旗本が、吉原の遊女と心中して、家改易の処分を受けたのは明和年中のことである。これに引き続いて「君と寝ようか五千石とろか、何の五千石君と寝よ」と、浮名 を唄はれた旗本寄合格の藤杖外記が、大菱屋の綾衣と心中したのは天明五年であつた。これを用人尾崎郡兵衛の詐略で、外記の屍体を家来の辻団右衛門と申し立てて一旦は事済みとなつたが、後日になつて事件が暴露し、浅草の幸龍寺に埋めた外記の屍体を発掘して検視するなどの騒ぎがあり、藤枝家は断絶の処罰を受けた。外紀は死んだ後までも恥を哂した訳である。武士の心中沙汰は、まだ此の外にも沢山実例が存してゐる。