津軽藩士であつた原田伊太夫が、吉原江戸町太左衛門店の遊女尾上に血道を揚げた為めに主家を浪人し、その結果両人が心中を企てたのは、延享三年も押詰つた師走十三日の夜であつた。然るに両人 とも死に損じ、法規の定めるとこるにより、日本橋の袂で哂しものになつて、男は非人頭松右衛門へ、女は同じく非人頭善七の手下として引渡された。これが今に新内に語られてゐる尾上伊太八の事 件である。その後、明和六年七月三日に、幕府御賄方伊藤伊之助が(吉原京町の蔓屋の遊女三芳野と剃刀で心中をしたが、幕臣だけに内分にして、両名を本所の慈眼寺に葬つた。これが、新内語りの米櫃となつてゐる浦里時次郎の情痴を綴つた「明烏夢泡雪」である。斯うして続出する心中物を、直ちに俗耳に入りやすき美辞麗句で作りあげ、然も哀傷的な飾調に富んだ新内で語るので、是を聴く蕩児遊女は頻りに心中を企てて、自分達が語りもの中の人物とならうとするので、遂に吉原廓内に新内節を禁じ、纔に盆の十六日一日だけ、死んだ仏達への手向として許すこととなつたとは、如何に当時の社会が、心中に対して神経過敏であつたかが窺はれるのである。