併しながら心中を企てる程の男女には、法令の厳しさなどの眼に映るべき筈はない。鶴賀節の浦里の文句ぢやないが、「好いた男にわしや命でも、何の惜しかろ露の身の、消えば恨みもなきものを」とあるやうに、栄辱を超越してゐる連中だけに、一遍の禁令などで跡を絶つべき訳もなく、時勢の降ると共に益々多くなつて来た。享保元年に青山百人組の徒士鈴木主水が、新宿の橋本屋抱へ白糸と心中を遂げ、同五年には長延といふ坊主が、遊女と心中して世間を驚かし、更にこれに引き続いて吉原の鴈金屋の遊女釆女の許へ繁々と通つて来る坊さんがあるのを、楼主が危険と察して登楼を拒んだところ、坊さん悲観して自殺した。それを釆女が耳にして、跡追心中を果した事もあつた。かく心中が頻発するので、幕府では芝居や浄瑠璃に心中物を演ずることを厳禁したが、それでも到底防止することは出来なかつた。