一三、心中の禁令も空文となる

江戸に心中の流行し始めたのは、享保以後のことである。将軍吉宗はこれを防止する政策として、男女が心中を企て、既遂した場合には、屍体は取り捨て、法養追善を許さず、若し未遂に終り、生き残つたときは、三日間日本橋の袂で哂した上に非人の手下となし、一人だけ生き残つた者は下手人とするといふ、やや過酷の法令を発して警めた。川柳点に「日本橋馬鹿をつくした差向ひ」とあるのや、「四日目は乞食で通る日本橋」と詠んだのばその実情である。且つ吉原を始め遊里で心中のあつた際には、その部屋にあつた畳建具及び什具まで、一切非人の所得たるべしと規定したので、非人は遊里に心中があつたと聴くと、直ちに押掛けて往つて、夜具火鉢箪笥まで持ち去つた。これには妓楼の主人も閉口したと見え、後には非人頭を買収し、少額の内済金で埒を明けるやうになつたといふことである。