元禄年間には、不思議と心中が多かったが、それ以後とても決して尠いものではなかつた。宝永元年には、「心中重井筒」で知られた、大阪六軒町の茶屋重井筒の抱へ女おふさと、万年町の紺屋徳兵衛とが心中を遂げた。それから五年を経た宝永六年に、大阪本町の菱屋の手代二郎兵衛と、お針女おさきとが今宮の蛭子の森で心中した。丁度懸鯛のやうになつて自害してゐたといふので、世人が懸鯛心中と噂した。即ち絹一反を松の木にかけて相並んで縊首したので、当時としてば破に風変りの死に方であつた。かく死に方に異風を考へるやうになつたのは、取りも直さず心中の退化であつて、これに由って世評を買はうとした、利己的の下劣な心が動いてゐた事が知られるのである。そして正徳五年には生玉心中があつた。大阪松屋町の茶碕屋五兵衛の倅嘉平次と、伏見坂町柏屋の抱へ女おさがと、生玉社の露地を穢したのであるが、これは前に記した曽根崎心中の芝居を見た帰りがけに心中したとあるのは、これによつて無常心を誘ひ出されたのであらう。更に六年後の亨保五年には天綱嶋で、今に人口に膾灸されてゐる小春治兵衛の心中があつた。
小春は北野新地桜風呂の湯女、治兵衛は天満の紙屋で、お十夜の夜に綱嶋の大長寺の藪外で、男が女を剌殺した後に縊死した。それを大近松は例の才筆で「暫し苦む成り飄、風に搖らるる如くにて、此の世の縁ば切れにけり」と叙してゐる。心中の美化は、実に大近松が最初で、然も最後の人であつた。。