為永春水によつて、天下の女性の涙を紋つた「小三金五郎娘節用」の事実は、元禄年中に大阪にあつた心中である。小三ば籠屋町額風呂の湯女であつたが、後に島の内の綿屋の遊女となり、金五郎は歌舞伎役者で加茂川のしほ座の抱へ役者であつた。小三ば二十一、金五郎は二十三、共に人気盛り働き盛りであつた上に、兎に角に、遊女と役者の心中は初めてであつた為めに大評判となつた。それを春水が例の軟かい筆で、女子供にも分るやうに書き流し、且つ有名な「逢ふは別れの初めとは、かねてより人の身の定めなきに引くらべ、覚悟いたし居り候ひしに、漸く只今思ひ当り候まま、この世のお名残りに一筆書き残し参らせ候」と、哀韻嫋々たる遺書などを拵へたのが時流に投じ、当時の若き男女は、現代のモボモガが東京行進曲や、紅屋の娘の小唄を諳んじてゐるやうに、此の遺書の文句を知らぬ者は恥だと思ふまでに流行したものである。
心中文学が世道人心を害することの如何に強烈であったかは、此の一事からも桑しられると同時に、心中が益々流行したのも、また故ありと云ふべきである。