八、心中物を演劇にかけた始め

心中物を芝居で演じたことは、大近松の曽根崎心中よりは、三勝半七の心中の方が早かつたのである。大和五條生れの茜屋半七が、大阪長町四丁目の美濃屋平右衛門の娘三勝と、千日前の墓地で心中したのは、元禄八年十二月六日の夜であつた。それを、翌九年正月二日から大阪の岩井半四郎一座で「御評判の心中」と、外題づけして演じたところ大当りで、三勝に扮した花井あづま、半七となつた杉山勘左衛門の両優で、千日寺に墓碑を建て、これに、大阪きつての俳人であつた上嶋鬼貫が、「此の塚ば柳なくとも哀れなり」と題句して、手向けたといふことである。

然し、浅間しくもあり気の毒でもあつたのは、当時の掟として、心中者の屍体は取り棄てと称して、埋葬することを許さなかつた為めに、両人の屍体は何時までも草原の上に曝されてゐて、三勝の前がはだがり恥しい姿となつてゐるのを、それをまた面白いことと思つて、見物が群集したと古い記録に残つてゐる。因に云ふが、此の事件が「艶姿女舞衣」に作られて浄瑠璃になつたのは、迥に後世の安永元年からである。