心中文学の宣伝が、心中を劇増した一原因であることは否まれぬ点である。これに関しては、西鶴よりも大近松は罪が重い。西鶴の心中観は唯物史観的であつて、これを美化しようとか、同情に訴へようとか、更に巧みに作為しようとかいふ所の少いのに反して、大近松は天才的の麗筆を以て、これを出来るだけ美化し浄化し、道徳化し、「己れも一つ心中して見ようがな」と、不了見を起させるやうに創作して宣伝した。
大近松が初めて、心中物を書いた「曽根崎心中」を見ても、その痕が歴々と存してゐる。全体、此の事件は元禄十六年四月に、大阪内本町の醤油屋平野屋忠右衛門の甥で、手代分であつた徳兵衛が、北野新地天満屋の遊女お初と、曽根崎天神の森で情死したもので、今日で云ふと、新聞の三面種として七八行で事済むほどのものを、その翌月の五月に大近松は京都から出かけて来て、まだ此の評判が市中に高かった折に、一夜漬の作として書いたものであるが、何がさて天才の筆とて、一代の碩儒物徂徠をして、三嘆拍案させたといふ例の名文句―「この世の名残り、夜も名残り、死にし行く身を譬ふれば、仇しが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ、アレ数ふれば晩の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞きをさめ、寂滅為楽と響くなり」と、天衣無縫の如き妙文章でつづつた上に、更に心中を美化して細叙し、結句において、「貴賤群集の回向の種、未来成仏疑ひなき、恋の手本となりにけり」と、讃嘆し、然もこれが浄瑠璃として唄はれ、人形芝居として演じられ、万人の視聴を集むるといふに至つては、金に詰つた小心者の男や、河竹の流れの苦に喘ぐ端女郎などが、「死なうが」「死にませうよ。そして浮名を唄はれ、芝居になりませうよ」と、白露や、無分別なる心中と出かける者の多くなるのは当然である。