承応二年将軍家綱のときに、元吉原京町の三浦屋の遊女総角が、情夫であつた花川戸の戸沢助六の死んだのを悲しみ、三七日の忌日に跡を慕うて自害した。
それから延宝七年十一月には、鈴ヶ森で処刑された平井権八の後を追うて、三浦屋の遊女小紫が、東昌寺の墓前で刄に伏して身を果した。前者は揚巻助六として、後者は権八小紫として、今に浄瑠璃 に演劇に、その浮名を唄はれてゐるほど有名なものである。
併しながら、これ等は悉く跡追心中であつて、まだ男女双方が同じ場所で同じ時刻に死ぬといふ、本当の心中と見るべきものは無がつたやうであるが、それが元禄になると、俄然として本当の心中を夥しきまでに見るやうになつた。心中の進化も、亦相当の過程を経てゐるのである。