将軍が大奥へ往くときは、お小姓数名が手燭を執り、佩刀を持ち、錠の口まで送つて往き、ここで奥女中と交代するのであるが、考へて見ると、馬鹿げきつた大仕掛なものであつて、寧ろ滑稽にさへ思はれるほどである。大奥では将軍のお成り聞くと、その夜のお伽をする者が定められるのであるが、これは言ふまでもなく将軍の指名であつて、数ある側室のうちから択ばれる。 かくて白羽の矢を立てられた女は、入浴して身を浄め、髪を解いてお下げー( 将軍と××××××結髪は許されぬ。これは兇器を髪の中に隠すのを、防ぐためだと云はれてゐる)となし、更に大奥を取締つてゐる老女から、厳重な身体検査を受け、お添寝と称する女子と××××××××のであり。
このお添寝という役は、随分人道を無視したもので、×××××××××××××××××××翌朝になると、××××××××××××××つたとか、ああしたお物語があつたとか、逐一その事を老女に報告するのである。
側室といへども、将軍へ話しかけることは絶対に禁じられてゐて、僅に将軍の方から話があれば、これに対して挨拶するだけが許され得たのである。全体、徳川の大奥においては将軍は、女中の名前を尋ねることは出来ぬ定めになつてゐた。
例へば将軍が風呂に入り、背の垢を流す女中がゐても、「お前の名は何といふか」と訊くときは、その 女中は、その晩のお伽にあがらなければならぬこととなつてゐたので、訊かれても答へぬのが掟であつた。かうなると、将軍となるのも亦窮屈なものであつた。尤も我国の古代では、女子が自分の名を男子に告げることは、総てを許す意味に解されてゐたのであるから、将軍の大奥には此の古俗が残つてゐたものとも云へるのである。
是等のことは別段に変態風俗史といふベきほどの問題ではないが、今の若い人達には、知つてゐる者が尠いと思うたので、筆の序に敢て書きつけることとした。