二、××権利の濫用者は将軍

××権利を濫用した将軍や大名は、古くから多く存してゐるが、徳川時代になつてから三代家光が筆頭である。

全体家光は、男色を好んで女色を遠ざけた一種の変質者であつたが、春日局から「それでは血統が絶えるから」と苦諫されてから後は、極端な××権利の濫用者となつてしまつた。家光は伊勢の慶光院といふ比丘尼御所から、年賀のために参候した若い比丘尼に懸想し、無理に還俗させて枕の塵を払はせ、これをお万の方と称し側室とした。

更に御台所の鷹司氏―(家光は正妻とは仲が悪く、一度も大奥へ往つたことが無いと云はれてゐる)に附いて、京都から来た八百屋太郎兵衛の娘お玉を愛し、将軍綱吉を産ませた。このお玉が、有名 な桂昌院である。将軍の淫蕩はお定りのことで、別段に取立てて云ふほどの事もないが、綱吉でも吉宗でも、猖んに××権利を濫用して人妻まで奪つたものである。これを「将軍のににびbがと云つた。綱吉が柳生吉保-(或は松平乗邑ともいふ)の女とたはむれ、吉宗が小川某の妻に鼻毛をのばしたことなどは、誰でも知つてゐる事件である。殊に家斉に至つては、此の種の代表的人物であつて、二十一人の側室を有し五十五人の子供を儲け、掛りの役人も、後には子供の名前を択ぶのに困難したといふ逸話さへ残つてゐる。

名君と云はれた水戸の斉昭なども、好んで女房狩りをして、百姓の女房まで閨中に召し、今に同地方では、不義のことを「殿様の真似だ」と云うてゐるとのことである。かうした淫靡の時代をつづけた徳川の三百年―その間には、実に数へきれぬほどの変態的の猥褻行為があつたのも、決して不思議ではないのである。