一一、社会的制裁としての祭儀

現今でも草深い片田舎へ行くと、不徳の行ひのある者の家へ祭礼の神輿を担ぎ込んで、その者の反省を促すと云ふやうなことが行はれてゐる。俗にこれを「神輿荒れ」と称し、相当の制裁力を有して ゐるのである。

然るに昔に溯るほど、此の制裁が祭の折に発揮されたものである。千葉市の千葉神社に、昔あつた千葉笑ひと云ふ祭は、夜分に異装覆面した者が出て、燈火を消し、人物の誰なるかを分らぬやうにし、そして一年中の領主、名主、組頭、又は町内で不人情のことをしたり、又は不義を働いたりした者の罪状を一々素ッぱぬいて、忌憚なき批判と痛罵とを敢てして反省を促し、それが終ると一同が大笑ひして退散するもので、此の名を負ふやうになつたのである。

宮城県塩釜町では、昔正月十五日夜の左義長祭に、町内の子供十二三人が一組となり、民家の町に立ち、先づ五六人の者がザットナー(簡単にせよとの意)ザットナーと唱へると、残りの子供たちが異口同音に、その家の主人の非行、妻女の不埒、娘の不行跡などを無遠慮に言ひ罵り、かくて次々の町内の憎まれてゐる家を廻るのであつた。

高知県の丸根八幡宮の祭礼に、「なばれ」と云ふことが行はれたが、これは名主や組頭の非行不徳を脚色して芝居に演じ、そして諷刺する行事であつた。

四五十年前まで、関東八州に行はれた「談義」と云ふ行事も、後には雲水の仕事となつてしまつたが、その起りは祭礼を利用して、制裁を加へた慣習のやうに思はれるのである。

更に、これとは少し趣きを異にしてゐるが、昔は村に盗賊があつたり、又は農荒しなどがあると、村の者を氏神社へ集め、御符を飲ませて犯人を捜し出す方法が行はれてゐた。これは犯罪者が御符を 飲むと、必ず血嘔吐を吐くと信じられてゐた為めである。

それから作物を荒す者には、人形を拵へ、頭なり腹なりへ五寸釘を打ち込み、それを氏神社で祈祷し、立てて置くと、屹度釘のあるところを病むと云ひ、然も此の方法で犯人を捕へた例が各地に残つ てゐる。神を信ずることの篤い時代においては、祭の社会的意義も重大なるものであつた。

祭礼と奇風俗との関係に就いては、まだ書くべき事が夥しきまでに残つてゐる。誰でも知つてゐるやうな譽替祭とか、裸祭、風祭、霜祭、雨乞祭などは言ふまでもなく、更に専門家でも余り知つてゐぬ御幣合せの祭、縛られ祭、手杵祭、灰ふり祭、動物に扮する蛙飛びの祭、烏舞祭などを始めとして、名称を挙げるだけでも容易でないほど存してゐる。

殊に各地の性的祭に至つては、少しく誇張して云へば僕を代へるも猶足らぬと云ふ有様であるが、既に輿へられた紙幅が尽きたので他は割愛した。

そして、祭礼と風俗との関係を注意する上に考ふべきことは、神国であつた我国にあつては、古代になるほど風俗の源が祭礼から発してゐる点を閑却してはならぬ。今日でこそ全く意味を忘られたる「一ちく、たつちく、たゑもんさん」と云ふが如き一極の語も、元は祭礼に関する重要なるものであつた。

子供がお河童に天窓を剃り、頸筋のとこるに少しばかりの毛を残してゐるのも、初めは信仰に由来してゐるのである。その他に、酒も煙草も祭用のものであつて、舞も踊も祭礼から流れ出たものが多 いのである。

此の観点に立つときは、独り風俗のみならず、総ての文化の源流は、祭礼を外にしては遂に解釈することが出来ぬのである。