柱祭と称して、二丈も三丈もある大きな松明をたて、それへ火を放つて焚き、その柱の倒れる方面によつて吉凶を占ふ祭は、今に各地において行はれてゐる。
東京の近くでは、山梨県の吉田の火祭が最も有名で、東京から態々見物に往く者さへある。茲に一二の作法を示すと、兵庫県揖保郡旭陽村大字津市場では、旧七月十六日夜に稲荷河原へ、高さ六間に、周り四尺五寸の柱を立て、その上端に取付ける火祭籠は、百二十本の青竹と八貫目の縄とで造り、その中へ六十束の麦藁を入れる。投松明は麻稈と竹とで一尺ほどに作り、これへ火を点けて大きな火祭 籠を目がけて、下から投げあげるのである。
巧く投げ込んだ者はその年は幸運に恵まれ、更にその大きな柱が燃えて、倒れた方向の村々は豊作と云うてゐる。京都府北桑田郡知井村大字蘆生でも、七月十四日に柱祭の火祭を行ふ。ここでは竿の高さ十五間ほど、その頂辺に苧殻を傘のやうに束ね、松明に火をつけて下から投げて燃す事は前と同じであるが、これが燃え始まると、村中が明るくなつて昼のやうである。柱の倒れた方向で年占をす るのも亦、前と同じである。
此の外に山口県、長野県などにもあるが省略する。ただ和歌山県田辺町の柱祭だけは、下から投げ松明をするとき、各自が俯いて股の間かち投げると云ふことだ。
これは至難のことを遣り遂げるほど、神の恵みが厚いと信じた為めである。それでは、かうした火祭が何で起つたかと云ふに、これは火を神として崇めた信仰から来てゐるのである。
火祭の明るいのに反して、特に真ッ暗にして行ふ闇祭と云ふのが各地に在る。これも東京の近くでは府中町の国魂神社で、毎年五月五日の夜に行ふのが有名である。今でも祭の刻限が来ると、町中の燈火を残らず消させ、その闇の中で神事が挙げられるのである。
静岡県見付町の矢那比売神社で、旧八月十日の夜に行ふ闇祭も、また世上に著聞されてゐる。ここの闇祭は午前二時に御輿が渡御する合図と共に、町内一時に燈火を消して真ッ暗のところを、御輿が御旅所まで渡御するのであるが、氏子は悉く素ッ裸でお供することになつてゐる。
そして此の闇祭が一転して、居籠り祭、又は戸閉て祭(共に外出を禁ずる祭である。)となるのであるが、これも各地に存してゐるうちから一つだけ載せると、大阪市に近い西ノ宮の恵比須神社の祭神 は、三年にして足立たぬと云ふ異相なので、氏子に見られるのを恥ぢるとて、正月九日の夜の祭には市内悉く戸を閉ぢて慎しむので、俗に居籠り祭と称した。翌十日の朝に、戸を開けて参詣し、十日恵比須とて賑うたものである。それでは何故にかかる闇祭が発明されたかと云ふに、時勢が進むにつれて神の正体が知れて来たので、それを知らさぬためだと云はれてゐる。古くから、神を見ると死ぬと云ふ語の裏に、闇祭の消息が伝へられてゐるのである。