地方へ往くと、他村から来た入聟を軽蔑し、虐待する慣習(その理由は長くなるので省略する)が、つい近年まで残つてるて、聟背め祭が種々なる神事となつて行はれてゐた。
茨城県古河町に近い三ッ堀村に、大腹くッちやう明神と云ふ不思議な名をもつた氏神がある。大昔の三月初午の日に、利根川の洪水で村へ大木が漂着したのを、農民が飽食満腹して、同音に「おお腹くちいな、ゑんさらはう」と、囃しながら引揚げて神に祭つた。毎年その日になると、此の古木を村内 の新聟に昇がせるが、その祭の前日に社の池の泥をとり、周りに積んで置き、当日になると古木を池中に昇ぎ入れさせ、村民は池の周囲に立並び、異口同音に、「おお腹くッちやう、ゑんさいはう、いつもかうなら、よかんべい」と囃しながら、泥を掴んで池から昇らうとする聟をめがけて打ちつける。
かうして散々苦しめると、聟の妻が村民に詑びて祭が終る。茨城県真壁郡大宝村の氏神祭の座に、初めて連る者は新聟が多い。そして此の者には、並山盛りの外に別段の大山盛りの飯が出る。祭礼に用ゐる飯椀は、大抵子供の天窓(あたま)ほどある。山盛りといへば並とは云ひ、見た目には助かるまじき心地さへするに、大山盛は杓子に水をつけて捻り捻り、餅のやうに固めて一尺ほど盛りあげる。面ッつき気に喰はぬ新入の聟と睨まれると、一尺ほど盛りあげた椀を横にねせ、膳の隅からはすかひに飯を捻りつけて喰はされる。一升飯を糧にする農男も、流石に晴れの場所にて喰ひ尽しかねて、ほろほろと泣き出す者もある。愈々喰ひかねると中老立会で、罰盃とて甘洒を親椀で十五杯飲ませる。
猶ほ長野県の村では、かうして無理に飯を喰はせて強ひ殺しにしたさうであるが、これに就いては後で詳しく述べる。栃木県芳賀郡山守村大字鶴田に、雨乞地蔵と称する尺余の石像がある。大旱の折には村内の若衆が集り雨乞するのに、その石地蔵を荒縄で縛り、田畑を曳きずり廻した揚句に、鎮守社の御手洗の淵に曳き往き、水深丈余の水底に投げ入れては引き上げる行事がある。新しい入聟は淵へ飛び込んで底に潜り、石像を抱きかかへて水面に浮び出ると、待受けてゐる村生えぬきの若者は、四方八方から手で水を打ちかけ息をつかせぬ。聟は苦しまぎれに石像を放して水底に落すと、今度は別の聟が代つて同一のことをやり、日没になつて終るのである。村民の憎しみを買つてゐる聟には、打ちかける水に泥や砂が交るといふことである。
埼玉県南埼玉郡稲間村大字上柏間の氏神社の例祭は、毎年正月二十五日であるが、その祭儀として若者たち打集り、拝殿の中央に大きな火炉を構へ、天井板が焦げるほど熾んに焚火をなし、一同駈け足でこれを廻るのであるが、この時、火炉に接して廻らねばならぬ者は入聟たちであつて、若者に不 快に思はれてゐる者は、実に惨憺たる憂目に会はされるさうである。
かうした聟苛め祭はまだ各地に存してゐたが、殊に苛酷と思ふのは、福島県田村郡片曾根村大字舟引の羽山神社の祭礼(今は廃した)における聟苛めである。
祭日になると、聟は裸体となり手に三尺ばかりの木刀を持ち、太刀舞をやることになつてゐる。そして立会の村民は声を揃へて、「先達坊の木の××は、中にキリキリキン妙堂、あたりはキラキラ総りん塔、………よいとこさ」と囃し立て、終ると、入聟は木刀を杖につき鳥居前に跨り、大声あげて自分の妻の名を三度呼び、更に卑猥なる文句を唱へさせられるのである。これでは昔、「小糠三合持つたら聟に往くな」と云つたのも道理である。
聟苛めに較べると、嫁泣かせ祭は流石に行はれた地方も狭いやうであるが、それでも、猶ほ一二を挙げることが出来る。
長野県南安曇郡氷室村では、大師講の折に、他村から来た聟や嫁を講元の家に招き、食べきれぬほどの御馳走を強ひて、若し食べ過ぎて死ぬ者があれば、その年は豊稔だと云ふのである。これを村では「強ひ殺し」と云つた。それ故に聟や嫁のある家では、大師講が近づくと、何とか理窟をつけて実 家へ預けることになつてゐた。
京都市外の上賀茂村のサンヤレ祭は、毎年三月廿三四の両日に行はれるが、その前年に嫁して来た新婦は、若者宿へ披露に往き、山盛りの飯を無理に喰はされる。これを泣き飯と云うてゐる。
それでは、かうして何故に飯を喰はせるのを祭儀としたかと云ふに、これは大昔からある共餐式であつて、一つ釜の物を食ふことは即ち村の仲間入りをなし、更に氏神の氏子となつたと云ふ証拠なのである。