六、悪口祭と喧嘩祭

昔の人は、神を信ずる心が深かつただけに、また神を疑ふ心も強かつた。障らぬ神に祟りなしと考へてゐたと同時に、障つた以上は、神の恵みに与からねば済まなかつたのだ。

従つて神に祈願しても、ただお賽銭を献じたり、願事を申し上げただけでは不安心であつて、慥に神様が承知した納受したと云ふ保証を得なければ、気が休まらぬのであつた。此保証の一方法として工夫された祭礼が、相手と勝負して勝つことを必要とした年占である。そしてその勝負の方法には、綱引祭、押合祭、柱松祭など種々あるが、ここに言ふ悪口祭も喧嘩祭も、亦その一方法として発達したものなのである。

即ち勝負して勝つことは、その年だけ神の恵みが特に加はつてゐると信じたのである。側の者には滑稽に見えるが、やつてゐる者は真剣である。

栃木県足利郡三重村大字大岩の毘沙門堂で、毎年大晦日の夜に、参詣人同士の間に猛烈なる悪口祭が行はれる。知ると知らぬとの別なく、顔を見次第にお互ひに悪口を投げ交はし罵倒し合ふ。然もその文句は、極めて野卑であり、醜猥であつて、とても平常なれば唇頭に上すことの出来ぬほどの誹謗の言辞を、平然として然も相手に負けまいと猖んに連発する。町内の勢力家とか、村内の徳望家とか云はれる人達までが、一度この祭礼に臨むと、忽ち身分も地位を忘れて悪口する。ここにも祭礼の空気が、参詣者の心持を群衆感情に引つ張り込んで行く力の動きが窺はれる。そして此の悪口に言ひ勝つた者は、その年に利運が来ると信じてゐる。

西鶴が永代蔵に書いた京都祇園社の大晦日夜の悪口祭も、かなり猛烈なものであつたらしい。「神前の燈火暗うして、互ひに人顔の見えぬとき、参りの老若男女左右に立わかれ、悪口のさまざま言がちにそれは腹かかへる事なり。己れは三ヶ日の内に、餅が咽喉につまつて鳥辺野へ葬礼するわいやい。おどれは叉人売の請でな、同罪に栗田口へ馬に乗つて行くわい。やい、おのれが女房は元日に気が狂つて、子を井戸へはめをるぞ」と、悪口の数々が載せてある。

茨城県西茨城郡入間村の愛宕神社の例祭は、毎年旧正月十四日に挙げられるが、此の夜は村中の男女が総出になつて人の見さかひもなく、互ひに悪口の言ひ合ひをなし、唾を吐きかけるなどして山上に押し登る。途中で或ひは肩で押し合ひ、山上で拳で突き合ひなどする事もある。殊に悪口は極端であつ て、悪口の上手の者が巾を利かせる。初めて此の祭を見る者は、余りの乱暴に慄ひあがるさうである。

島根県の安水駅から東南里余の瑞光山清水寺に、俗に「清水の喧嘩」と称し、節分の夜に参諸人の悪口祭がある。言ひ勝てば豊稔だとて、猖んに詞戦ひをする。但しここでは、絶対に手出しすることは禁止されてゐる。

悪口祭から喧嘩祭へはほんの一と足の推移であつて、口でやるのと手でするのとの相違だけで、然も祭礼の目的から云ふと、両者ともに同じものであるが、口より手の方が一段と古くもあり、且つ效験があると考へられてゐた。従つて、此の乱暴な祭も各地に存してゐた。

福島県石城郡四ッ倉町では、毎年小正月の夜に農民と漁民とが二た手に分れ、二尺位の松丸太に火をつけ、川を隔てて投げ合ひの喧嘩祭をやる。血気の若者が渾身の勇を込めて投げるので、毎年七八人の負傷者を出し危険この上もない。警察署から度々禁止の命を出すが、これをせぬと悪疫が流行す るとて今に止めぬ。そして農民が勝てば豊作で、漁民が勝てば豊漁だと云うてゐる。

愛知県熱田町の石打は正月十四日に、名古屋の者と熱田の者とが両隊に分れ、二十五丁橋を隔てて石を投げ合ひ年占をした。怪我人が出るので、後に禁止された。広島県蘆品郡戸手村の天王社の祭は六月十五日であるが、神輿を昇ぐ輿丁が河原で東西に分れ、互ひに摘み合ひ擲ち合ひ負傷するので、喧嘩祭と称してゐた。これも年占であることは言ふまでもない。