川柳点に、「母の名は親爺の腕に萎びて居」といふのがある。これは改めて、説明するまでもなく、親爺夫婦が若い時に、「誰々命」と、刺青した名残りを止めてゐたのを詠んだものである。
さうして、かうした事実は、昭和の現代にあつても、朝湯などで稀には見かけるが、昔はこれを、一種の見栄としてゐたのであるから、わざと、これ見よがしに振舞ったものである。
或る仕事師が、「年老いて笑はれ草と思ヘども、彫らねばならぬ鳶の附合」といふ狂歌を彫つたとあるが、実際、以前は、職業によつては否応なしに刺青したのである。従つて、母の名を腕に彫るくらゐは、朝飯前の仕事であつたに相違ない。
遊女が客ヘの心中立てに、刺青したことも、昔にあつては、殆んど当然のこととして誰も怪しまなかつた。
三十余年のながい歳月を、遊女の研究に費した畠山箕山の、「色道大鑑」といふ書によると、遊女の心中立てには放爪、誓詞、血書、断髪、刺青、切指、貫肉の七種ありとて、その方法を詳しく記してゐる。
どれを読んで見ても、気の弱い者なら魂消るほどの無気味なものばかりであるが、刺青に就いては、 「想ひ寄る男に文字かかせて、その筆をば彫り入れるを規模とす。剃刀にても、針にても入れど、剃刀のあとは文字たしかならず、針にて入りたるは字形うつくし、針を刺すごとに墨を入るると、皆な刺し終り、血の浮きたるを押しぬぐひて、墨を入るるのも二流あり、度々に入れたる墨は濃く、一度に入れたる墨は薄し、これ人々の好むに従ふ。命の字を名の下に彫ること、古代よりありて今に絶えず、その心ざす人を命にかヘて思ふと云ひ、また命限りに思ふともいふ―」とあるが、他は省略する。
御信心のお方は、原本に就いて御覧を願ふとするが、ただ一事だけ附記したいのは、昔の遊女は、嫖客と左右の肘を差し合ひ、その手のとどく所に刺青したのであるが、これが流行したので、京都島原の、中村屋の遊女小藤が新案して、女と男との指の股に彫るやうになり、これが、今に行はれてゐ るといふことである。電車などに乗つて、よく見かける―母指のつけ根に彫つてある刺青は、更にその後に工夫発明されたものであらう。
遊女の刺青については、川柳点の村料となつて、うんざりするほど沢山残されてゐる。
一二を遊げると、「二の腕で金をほり出す紋日前」とか、「真青なうそを傾城針でつき」などといふのがある。さうして、他の嫖客から、その刺青を消して心中立てをせよと云はれると、又それに従はねばならぬ義理となつて消すのだが、これも川柳点に、「いい施主がついて命を火葬にし」又は、「持 つた奴金で命をやかせてる」など多いが、消すには、灸をすゑて焼くのを普通としたやうである。
刺青を利用して、悪事を働いた毒婦があつた。文政頃に河童のお角とて、全身に刺青し、更に、河童が×部を指してゐる形を彫り、呉服店の大丸屋に行き、美服を買ひ、店前にて着換ヘるとて、裸体となつたのを、衆人が見て笑つたとて、居直つて金を強請つた。お角はこの手で、方々から金をゆすり、後には河童と呼ばれて、誰も相手にせぬやうになつたとある。