五、背中一面文覚上人荒行の図

刺青は、その動機によつて、図柄を異にするのは当然だが、これにも、意表に用る趣向が凝らされてゐる。

発奮の記念に、「一心」と彫るとか、禁酒の誓ひに、盃に錠をかけたものを彫るとかいふのは、昔から広く行はれてるたものであるが、稀には、「精神一到何事不成」とか、または、「何々居士、何々大姉」と、両親の戒名を背中に彫つてゐた男もあつた。

改心記念は花骨牌、賽ころなどを彫るのが通常だが、これにも神仏に誓ふといふ意味から、南無阿弥陀仏などと彫る者もある。

復讐を動機にしたものには、また変つたものが、少からず存してゐる。或る男が、背中一ぱいに、文覚上人が那智ノ瀧にかかつて、荒行してゐる図を立派に彫つてゐたが、その理由がなかなか振つてゐる。

文覚上人と云ヘば遠藤武者盛遠の成れの果である。盛遠は、許婚の袈裟御前に裏切られた為めに、袈裟を殺して出家したのであるが、その男も亦、結婚を約した女に破談されたので、この図を彫つたのであつた。少し廻りくどい説明であるが、本人にとつては、真剣なのだから面白い。

更に、変つたものでは、膝の下の所ヘ女の顔を彫り、これは、夫婦約束した娼妓が、肘鉄をくれたのを恨み、かうして坐るたびに、その女の顔を膝の下に敷いてゐるのだと云ふ。それならいつそ、足の裏に彫つて、歩くたびに踏みつけてやればよいのにと思はれた。

浅草の銘酒屋の女将で、背から腕ヘかけて、一面に天人の羽衣を着て、舞楽してゐる図を、しかも極彩色で彫つたのがあつた。そのために、「羽衣お国」と異名をとり、公園界隈では鳴らしてゐた。

この女の刺青の動機と云ふのは、遊びに来る客のうちには、さんざん遊んだ揚句、刺青の腕をまくつて、「この兄さんを知らねえか」と、啖呵をきつて遊興費を踏み倒して行くのがあるので、それに憤慨して、防禦策とし、先方が腕をまくれば、此方は肌をぬいで見せるのだといふことである。

迷信から来たものも多いが、そのうちでも、賽粒を彫るのが一番多い。これは、開運の圧勝になるといふ。また鯉ノ瀧のぼりも多いが、これも鯉を彫ると、鱗の数ほど金が溜るといふ圧勝である。

昔、麻布の谷町に喜八といふ大工がゐて、或る大名邸の、稲荷様の普請を受負ひ、古材木を交ぜて金儲けしたとこるが、この喜八に狐が乗りうつつて、気が狂つてしまつた。医者よ祈祷よと、家族や、弟子どもが心配しても癒らず、ますます暴れまはり、遂に、「穢れた古木で、稲荷の社を建てた神 罰だ」と、口走るやうになつた。すると、同じ町内に住み、喜八とは交際のある鳶の頭が来て、己が狐を落してやるとて、喜八の病床に近づき、段々と理詰にした上で、

「さあ狐め、これでも落ちぬか」と、両肌をぬぐと、背中一面に、文覚上人荒行の図が彫つてあつた。これを見た喜八は、忽ち慄ヘ出し、「落ちますから勘弁してくれ」と、その場に打ち倒れたが、それ以来全治したといふ。

刺青が狐つきを癒したといふので、当時大評判であつたといふ。但し、この頭の文覚上人の彫りものは、失恋のためか否かは判然せぬ。