三、刺青がないと肩身がせまい

勇み肌の鳶の者、鬼を膾で食ふ博奕打ち、裸体を生命とした雲助などが、好んで刺青をするやうになつたので、江戸時代の刺青は、図案においても、技術においても長足の進歩をなし、誠に有難迷惑な話ではあるが、刺青では、世界一といふ名誉を負ふこととなつた。

殊に、刺青の競進会が度々開かれるやうになつてからは、各自が意匠をこらし、珍奇を競うたので、更に一段の発達を遂げたのである。

江戸八百八丁を取締る町奉行の遠山左衛門尉が、倶利加羅紋々の刺青を天下の御自洲でひけらかし、雲州十八万石の出羽様ともあらう大名が、待女の雪の膚に刺青を施し、羅を着せて,「この眺めは、一入ぢや―」と、涎を流してゐる世の中である。上の好むところ下これより甚しきはなどと、理窟を云ふまでもなく、実際、「刺青がないと肩身が狭い」時代が永くつづいたのである。

延宝の頃、江戸浅草に、吊り鐘弥左衛門といふ侠客がゐた。肩から背にかけて、横筋かひに、南無阿弥陀仏と、大きく刺青したが、当時は、余り目立つやうな刺青がなかつたので、評判が高かつたと ある。それは仏名を彫つたからとて、別段に信仰に由来してゐるのではなく、ただ奇を好んだまでであらう。

刺青のある肌や、腕を見せつけて、他人を威嚇することも古くからあつた。

近松の書いた「女殺油地獄」の一節に、

「人威しの腕に、色々の彫り物して、喧嘩にことよせ、懐中の物取ると聞き及ふ」とある。これは享保頃の世相である。後世になると、勇み肌の者の刺青の目的は、大半まで威嚇用であり、いやがらせであつた。

刺青の悪用に就いては、面白い話がある。

江戸時代に、首斬り役を勤めてるた山田朝右衛門が、例の如く死刑囚の首を刎ねようとして、ふと囚人の首筋を見ると、首から背ヘかけて、東照宮権現の文字が、墨黒々と入れてある。

江戸期に於いて、東照宮と云へば、泣く児も黙るほどの有難いもの。朝右衛門も、神君の名に刄を当てることはいかがあらんかと、その旨を牢奉行の石出帯刀に訴ヘると、牢奉行の一存にもゆかぬと て、老中の評議となり、その結果は、神君の尊号を二つに切ることは恐れありとて、その囚人は、死刑を免れて永牢になつたといふことである。

これは信仰ではなく、予め謀つてやつたことであらう。