菊は栄える葵は枯れる、西に轡の音がする―と、唄はれた徳川の末に、赤坂青山善光寺の住職飛田大円が、芝田町へ薬湯を開業し、同町にある毘沙門天の祈祷を名として薬湯は無料の上に、毘沙門様のお加持がしてあるから、万病に霊験があると触れだしたので、世間は幕末の騒ぎで喧しかつたにも拘らず、入浴に来る善男善女で一杯だつた。
大円和尚は殊勝さうに、珠数つまぐり、「速かに病気を癒さうとする篤志のお方には別室で祈祷してあげます」と、延命院に倣って拵へた竈燈返しのカラクリ座敷へ、多情の後家や人妻を引入れて、歓喜の涙を流させたものだが、かうして絞りとつた悪銭を持つて、口直しだと、盛んに吉原の金瓶大黒の今紫(本名高橋お香)の許に通ひつめ、遂にこれを身受して囲つて置いたが、遊ばしておくのも勿体ないと新富座の芝居茶屋三州屋を譲り受け、ここに今紫のお香を据ゑ、毎晩のやうに通ひ、爛れるやうな肉欲に浸つた。
大円の不始末は幕府の倒れる際とて、役人の耳には入つても、それ所の騒ぎではないので、お咎めはなかつたが、檀家の目に余つたので騒ぎとなり、傘一傘で追ひ出されることとなり、一時は三州屋の食客となつて、坊主頭に鉢巻などして、持ちつけぬ箒を持つて庭掃除などしてゐた。
が、お香から愛想をつかされ、出て往けがしに取扱はれるので、そこにも居たたまらす、今度は芝山内の融通念仏堂へ引籠り、堂守となつて暫らく暮すうち、世は明治と改り、僧侶の取締もゆるやか になつたので、又々浮気の蟲が首を抬げ、今度は婦人病専門の祈祷を云ひたてたとこる、浅草栄久町の士族、高田央の養母おかぢといふ五十の坂を制越えた婆さんが引ッかかり、堂内へ留め置いて、祈祷に事よせて無理に通じ、夫婦のやうになつて暮らした。
が、おかぢは元大名の奥向に勤めた女とて、衣類や貯蓄も相当にあつたのを、何の彼のと口実を設けて悉く巻きあげて了ひ、一昨日来いとばかりに追ひ出して了つた。
五十を越えて初めて知つた男の味。邪慳にされても、おかぢには大円のことが思ひきれず、尋ねて行くと、
「お前には狐がついてゐるから、落してやる」と、嫌がるおかぢの手足を縛り、責め立てるので、おかぢが悲鳴をあげて、泣き叫ぶ声を巡邏が聞きつけ、大円は捕縛されて禁錮二ヶ月に処せられた。