姫路の城下外れに、持等院といふ法華寺があつた。住持の日伝が加持祈祷が上手だといふので、帰依者が多く、金のある寺として聞えてゐた。
日伝が京都の本山で、祖師の遠忌が行はれた際に、買ひ馴染んだ宮川町の遊女松ヶ枝を小姓風に仕立て、名を松之丞と改め、寺へ連れて来て昼問は庫裡の奥深く隠し置き、夜分になると、酒の相手をさせては鼻毛を長くしてゐたのである。
寺男の久助は、雇はれてまだ間もないのだが、早くもこの小姓が、タダの小姓でないことに感づいて、どうかして本性を見現はし、金の蔓にしようと附け狙つてゐた。
日伝が、信者の家へ祈祷に出かける供をした久助は、日伝を送り込んで置いて、足早に寺へ戻り、そろりと庫裡の庭先へ入つて来た。
「松之丞さん、さぞ御窮屈でせうに」と、声をかけながら縁へ腰を下した。
松之丞は、誰も居まいと思つてゐたところへ不意に声をかけられたので、驚きながら居住ひを直して、
「誰かと思うたら、久助ぢやないか。お前はお住持様のお供をして出かけた筈だのに、どうして一人で帰りやつた」
「なにね、少し松さんにお訊きしたい事がありまして、それで帰つて来たのでさ」彼は腰から莨入を取出し、燧石で火をつけ、一服吸つてから、左のやうな意味を語つた。
―それは、松之丞が女であること、この事が世間に知れれば、住持は女犯の罪で遠島、松之丞とても、同罪は脱がれぬことなど、虚実を述べた揚句に、「遠島になるのが恐ろしければ、己の自由になれ」と、云ふのであつた。
松之丞の松ヶ枝も、どうせ一度は、かうした破目にならうとは覚悟はしてゐたものの、寺男風情の慰みものになつてたまるものかと、そこは泥水を呑んだ女だけに、「二三日考へさせておくれ」と、その場を軽く外してしまつた。
その晩松之丞が、日伝に久助の一件を話したことは云ふまでもない。色と欲との二途をかけた久助を、生かして置いては身の破滅と、二人は手筈をさだめ、翌日日伝は、姫路に用達に往くとて寺を出て、直ぐ隠れて引ッ返し、松之丞は久助に、住持が留守だからとて酒を強ひ、酔つたところを日伝が、大掛矢で久助の眉間を一撃して殺して了ひ、親許へは本堂の屋根の草を取りに昇つたところ、足をすべらして地上に落ちて死んだと取繕ひ、二十両の香典をつけて屍体を引渡した。
かうしてしまへば、本尊のお釈迦様でも御存じあるまいと思ひのほか、天知る地知る役人が聞き知つて、日伝と松之丞は、共に死罪に処せられ、持等院も間もなく廃寺となつてしまつた。
五、五十を越えて初めて知つた男の味
菊は栄える葵は枯れる、西に轡の音がする―と、唄はれた徳川の末に、赤坂青山善光寺の住職飛田大円が、芝田町へ薬湯を開業し、同町にある毘沙門天の祈祷を名として薬湯は無料の上に、毘沙門様のお加持がしてあるから、万病に霊験があると触れだしたので、世間は幕末の騒ぎで喧しかつたにも拘らず、入浴に来る善男善女で一杯だつた。