三、明王院の住職と沢村田之助の艶葛藤

上野輪王寺の執当は、下世話に「執当、別当、盗人」と、云はれるほどに、勢力もあり、また収入もあつた。

その執当を二十年間勤め通した明王院の志常大僧正は、十七万両といふ驚くべき大金を蓄へ、凌雲院の住持に出世したが、後住と貯金の大半とは、弟子の尚海和尚に譲つた。

この幸運に恵まれた尚海が、堕落するのは当然すぎるほど当然であつた。

彼は金のあるに任せて、芳町や湯島の陰間茶屋を遊びまはつてゐたが、栄耀の果、当時若手俳優として、江戸の人気を背負つて立つてゐた三代目沢村田之助の艶容に悩殺されて、これを熱愛するやうになつた。

尚海と田之助との間には、人間の目には見えぬ因縁の鎖が絡みついてゐた。

尚海が若僧の折に、諸国修行に出かけ、越中立山の麓村へ来たとき、農家に泊つたが、その夜から悪性の風邪にかかり、三十日ほど厄介になつた事がある。その病中に尚海は、看護してくれた農家の娘を姙顕させて江戸へ戻つた。

娘は女の子を産むと間もなく、死んで了つたが、女の子が成長すると共に、父親の尚海に会ひたいとせがむので、祖父が孫女の手を引き、遥けき旅を重ねて江戸へ着くと、祖父は急病で頓死した。

取り残された孫女は、諸方を流転した後に柳橋の千代吉といふ芸妓となり、相当に流行つてゐるうちに田之助と馴染んだが、その恋を姉芸妓に横どりされたのを悲観して、隅田川へ投身して死んでし まつた。

この千代吉の実父尚海が同じ田之助のために野倒れ死するとは、実に皮肉なる人生の姿であつた。

田之助は美男の上に、卓越した技芸を有つてゐたので、その人気は全く素晴しいものであつた。しかし、当時の芝居道の習ひとして、かうした人気をつづけて行くには、意外の宣伝費や運動費を要し たものである。

田之助の費用は、尚海から出たことは云ふまでもなく、その金鎖は、何万両といふ莫大なものであつたと伝へられてゐる。

金に急がしかつた田之助は、尚海の外に、金のありさうな女を物色しては、それからそれへと、小鳥が木の枝でも飛び遷るやうに気を多くした。長崎奉行の妾をして蓄財したといはれてゐる珊瑚珠の おきわと綽名された年増女に関係したのも、おきわの財布の底をはたくためであつた。

江戸の侠客相模屋政五耶の娘を女房に迎へたのも、相政の勢力を利用するためであつた。尚海は愛人の田之助が、かうして数々の浮名を流すことを聞けば聞く程、嫉妬の炎が胸に燃えあがるのだつ た。それよりも懸念されたのは、

「金の切れ目が縁の切れ目、やがて金が無くなつたら、田之助に棄てられるのではないか」と、云ふことだつた。

然るにこのことが間もなく、事実となつて現はれた。尚海の不行跡が問題となり、明王院を追ひ出されたと聞いた田之助は、尚海のことなどは忘れてしまつた。

尚海が乞食坊主にまで零落して、田之助を訪ねて合力を頼んだ時、「乞食なんぞに用は無い」と、足をあげて蹴帰した。田之助が脱疸といふ奇病にかかり、両足を切り、両手まで切つて悶死したのは、尚海の恨みだなどと、口さがない江戸ッ児は言ひはやしたものである。