二、若い尼を責め殺した老尼の悶え

名古屋の伊勢町に、宝蔵院といふ尼寺があつた。住持の法蓮尼は、五十を越えた道徳堅固の聞え高かつたが、脂ぎつた肥り肉の豊満な体躯は、若かつた昔の面彫を偲ばせるに十分なものであつた。

弟子の蓮月尼は今年二十五といふが、愛嬌のある上に、俗に云ふ小股のきれあがつた女で、髪を生して町家の内儀にしたら、よい世話女房にならうものをと、評判するほどの美しさであつた。

この二人の尼さんは、毎日のやうに信徒の法要に出かけたり、町へ托鉢に出たりして、ただ一向に仏の道を歩んでゐたが、蓮月尼は、かうした空虚の生活に、がなり屈詫を感じてゐたのである。

墨染の袈裟をまとひ、檜笠を被り、道程にしたら五里も六里も托鉢をして戻り、疲れきつた足を、引摺るやうにして、独り寂しく風呂に入つた時、見るともなしに、見る自分の肉体。

そと握れば、掌の中にとけて消えさうな、その桃色の可愛い乳房は、また放せば群々と、胸一ぱいに咲く牡丹の花とも眺められる。

かうして、身うちに湧きあがる精力と濃情とは、いつも彼女の悩みの種であつたが、それを打ち消すには称名も題目も、誠に力の乏しいものであつた。

門前町の研物師の倅啓助が、宝蔵院の表門と軒を並べてゐる浜松屋呉服店の娘お絹に懸想したのは、去年の桜の散る頃であつたが、物堅い町家の娘に言ひ寄る機会がないので、啓助は一年余りも瘴れをきらしてゐた。

彼の家は、尾州藩へ出入してゐただけに、相当の家柄であり、財産もあつたが、相手のお絹が一人娘の聟取りと聞いたので、直接行動と出かけたのである。

想ひ悩んだ啓助は、窮して通ずる一策を考へ出した。

「これは、浜松屋へ出入りしてゐるあの若い尼さんを橋渡しにすれば、想ひが届く」と、云ふのであつた。

そこで啓助は、用も無いのに宝蔵院に通ひ始め、住持の法蓮尼や、弟子の蓮月尼とも懇意となり、もう打ち明けてもよい時分と、或る日のこと、蓮月尼が一人で留守居してゐる所へ出かけて、「お絹さんへ渡してくれ」と、一通の手紙を頼んだ。

しかし、頼まれた蓮月尼の若い血潮は、これを他所の恋路と見過すには、あまりにも湧立つてゐた。啓助を、お絹一人の者とすることが嫉ましくもあつた。

お絹の母親が、血相をかへて尼寺へ怒鳴り込んだのは、それから半年ほど経つた或る日であつた。「仏さんに仕へる身でありながら、町の娘の恋の取持をした上に、自分まで甘い汁の分け前を吸はうなんて、何といふ大それた女だ。呆れたものだ。お奉行所へ訴へて、牢へ打込んでやる」と、恐ろしい剣幕で、四辺かまはず怒鳴り散らすのであつた。

住持の法蓮尼は、お絹の母親をなだめて帰し、蓮月尼をよんで訊ねて見ると、母親の云つたことは少しも相違は無かつたのである。

併し法蓮尼には蓮月尼が仏の道に叛き、教への法を破つたといふ憎しみよりは水の出端の若い啓助の手に、半年あまりも抱擁されたことが恨めしかつた。

そこで、寺法によつて折檻するとて、蓮月尼を赤裸にし、手足を縛つて二階の梁に釣り下げて打ち殴いた。勿論飯も食はせず、水も飲ませずに打ちつづけた。三日目に啓助がこの事を知り、急いで宝 蔵院に駈けつけた時には、蓮月尼はすでに冷たい屍骸となつてゐた。