国定忠次には本妻お鶴のほかに、お徳、お町といふ二人の妾があつた。
お徳は上州玉村の、玉斉楼で女郎を勤めた鉄火者。お町は、忠次の乾児であつた嘉藤次の妹で、柔順な女。忠次は嘉永三年七月に、四十一歳で、このお町の家で中風にがかり、同年十二月に、大戸の関所で磔にかけられた。妻妾は三人とも、お構ひなしで放免された。
お徳は宿場で、飯盛女郎をしてゐる時分がら、心がけがよいと云はうか、小金を貯めてゐて、忠次に落籍されてからも、月々貰ふ手当のうちから幾らかづつ残して置き、忠次が処刑されると間もなく、江戸へ出て、荏原郡北沢村の名刹なる九品仏の住職道山和尚の囲妾となつた。
お徳は色の黒い、眼尻の釣りあがつた大柄な女で、凄味はあつたが、決して美人では無かつた。しかし、宿場女郎で鍛えた腕は慥かなもので、道山和尚などを喰ひこなすのは、朝飯前のお茶ノ子であつた。
それに、恐ろしいほど勝ち気な女で、酒に食らひ酔つて啖呵を切る時は、まるで、山寨に立籠つてゐる女賊の頭といふ恰好であつた。
道山は、お徳がかうした素性の女とは知らずに鼻毛を延ばしてゐたのであるが、お徳の方では、その頃の僧侶が、婦人に関係することは国法で禁じられてゐて、もしこの事が露顕すれば、一寺の住職なれば遠島―姦通なれば死罪、徒弟なれば、日本橋の袂に三日哂された上に、傘一本で追ひ出される弱点を知つてゐるので、何の彼のと口実をこしらへては、道山から金を捲きあげた。そして、少しでも出し渋ると、
「何んだこの助平坊主め。下手アまごつくと、只では済まないよ」と、長煙管で火鉢の縁をやけに叩きながら啖呵をきるのである。
道山には、この伝法肌のところが妙に忘れられず、剣を抱いて寝るやうな気持でありながら、お徳の魅力にぐんぐん引き込まれて行くのてあつた。
併しお徳の方では、絞れるだけ絞れば用が無いので、二年ほどで、尻に帆かけて、道山から脱れ、名をお琴と改めて、日本橋本石町四丁目に住み、貯へのあるところから、毎日のやうに芝居見物などして遊び暮してゐた。
当時の名優市川小団次(今の左団次の養祖父)が、非常に金に困つてゐることを聞いたお琴は、男衆のフヤ銀に托して、「親方のお小遣ひに…」と、小判で百両を贈つた。
この金放れのいい所に、小団次が惚れ込んで、飽きも飽かれもせぬ妻(中村歌六の娘で、今の吉右衛門の曾祖父)を離別して、お琴を妻に迎へた。長脇差の妾であつた彼女が、名優の家に入つてからの物語は、伝ふべきものが多いが、二番目の出る時まで預りとする。