明治四年十月に、副島種臣が外務卿となり、間もなく、米国人リセンドルを勅任顧問として傭ひ入れた。
リ氏は、仏蘭西に生れた軍人であつたが、のちに米国へ帰化し、南北戦争の折に、殊勲があつたので重く用ゐられ、支那駐在の米国領事を勤めてゐるうちに、東洋の国情を研究し、夙くも台湾の地が 用兵上に有利なることを着目し、時の米国大統領に対して、将来米国が東洋の天地に雄飛せんには、今のうちに台湾を占領すベしと献策したほどの人物であつた。
当時、明治新政府の最も苦しんだ問題は、内治方面では、食禄に放れた多数の浪人の不平であり、外文方面では志那、朝鮮、ロシヤなどに対する大陸政策の決定しなかつたことである。
そこで、副島外務卿は就任早々、リ氏が来遊したので引見し、我が国の大陸政策は、如何にすベきかと尋ねたのである。これに対するリ氏の意見は、実に堂々たるものであつた。曰く、
「日和は南の方台湾を領有して、諸外国の侵入を防ぎ、更に、北の方朝鮮を領有して、ロシヤの南下政策を防ぎ、併せて支那を控制するにあらざれば、将来の独立は覚束ない。即ち大陸を、弦月形に制御することが必要である」
副島卿は、この見識に惚れ込んで、リ氏を最高顧問としたが、さて、永くリ氏を我国に留め置くには、妻帯させるに限ると思ひ、それ以来、リ氏を連れては、新橋や柳橋を飲み歩いた。
すると、烏森の池田屋の抱へ芸妓の小鈴(関係者が現存してゐるので悉く匿名としたことを附記する)に、リ氏の思召があることが読めたので、副島は、浜の家の女将小浜(この女将は副島の愛妾であつた)に、万事を呑み込ませて、そつと小鈴に当らせると、
「毛唐人の洋妾なんか、真ッ平です」
と、いふ挨拶であつた。
それを、副島と小浜が手を代へ品を換へて、口説き落したのであるが、小鈴は、リ氏を日本に置くのが「御国の為めだ」と、云ふ一語に観念して、
「妾は、異人さんの足留役に、人身御供にあげられたのだが、これも御国の為めだと思つてあきらめてゐます」 と、常に云つてゐた。
向島長命寺の、桜餅の娘お花が、和蘭公使に見染められ、三条実美公のお声がかりで、「何事も、御国の為めと辛抱せよ」と云はれ.涙をのんで洋妾となつたのも此の頃の出来事だつた。お花は、一枚絵に出たほどの美人で、引く手も多がつたので、「御国の為め」と、振り切つて観念の眼を閉ぢたのである。
リ氏は、小鈴を迎へて、横浜の山ノ手に愛の巣を営み、ここから外務省へ通つてゐたが、明治七年の台湾征伐もリ氏の計画であり、ついで、大久保利通が大使として支那へ渡つた折りに、リ氏は随行して、償金五十万両を収める外交に功を挙げ、功成り名遂げて、本国アメリカに帰つた。
現代の名優として、梨園に時めいてゐる市村×××氏は、この小鈴と、先代市村××との間に儲けた子だと、伝へられてゐる。
さらに、口さがなき京童は、リ氏が支那に出張中に、小鈴は、情人であつた先代××の胤を宿したが、分娩すれば、混血児でないことが判然するので、窮余の一策として、大昔に、平宗盛の母親が、傘屋の子供と自分の子供とを取換へたといふ故智に倣つて、横浜から洋妾の子を貰つて来たなどと、誠しやかに語つてゐるが、嘘か実か、その秘密の鍵は、小鈴が握つたまま故人となつてしまつたので、この扉は永久に開くことが出来ない。