四、洋妾の競争と豚鉄火事

慶応二年十月廿日の朝まだき、横浜末広町の豚屋鉄五郎方から火が出て、遊廓全部と、その地続きである外人居留地を焼き払ひ、焼死者四百二十余人を出し、俗に、豚鉄火事と伝へられてゐる惨事があつた。殊に、鼻酸の極だつたのは、富士見楼の焼失であつた。

同楼は、二階三階に遊女の部屋があつたので、逃げ場を失ひ、遊女全部七十余名(外に召使の女を加へると、百二十名とも云ふ)が業火に焼殺され、彼の有名な岩亀楼や、神風楼と繁昌を競うた富士 見楼も、遂に潰れてしまつた。

しかもこの大火の原因は、処女洋妾に圧倒された娼妓洋妾の復讐と、これを利用した攘夷党の浪士の仕業だつた。

安政六年に、米国公使ハルリスが、下田生れのお豊(お吉の後に傭ひ入れた女)を、洋妾としてから、豚鉄火事のあつた慶応二年までは、僅かに八年にしかならぬのであるが、この永くもない八年間 に、洋妾となつた女性は、横浜だけでも、無慮二千名を下らぬと云はれてゐる。

さうして、外人が漸く我が国情に通じて来るに随ひ、娼妓洋妾を嫌つて、処女洋妾を好むやうになり、曩に羨望の的となつた娼妓洋妾は、今や指を咬へて、処女洋妾の後塵を拝するやうになつてしま つた。

「素人の癖に、洋妾面してのさばり歩くのを見ると、ほんたうに癪に障るね。居留地が無けりや、彼奴らの顔も見なくて済む。いつそ、居留地を焼いてしまはうか」

臭いもの身知らずと云はうか、中には、かうした恐ろしい考へをもつ娼妓もあつた。この処に附込んだのが、攘夷党の浪士である。

野州生れの大橋訥庵(岩亀楼の喜遊事件を創作して、当時の浪士を激勵したと伝へられてゐる男)の配下に、桑島某、外二名の攘夷の過激派がゐた。岩亀楼の遊女しげ松、外二名を買ひ馴染で、外人の動静を探る手がかりとした。

娼妓洋妾と攘夷浪士-妙な取合せではあるが、不思議ではない。

当時の洋妾と云へば、殆んど、その総てが口直しと称して、邦人を情人としたものである。

とに角に、この両者の間に、目的は異ふが、居留地を焼払ふと云ふ相談が纏り、烈風の朝を覘つて、先づ浪士が豚鉄の家に放火し、火の手の揚がるのを見て、娼妓しげ松外二名が、岩亀楼の二階に火を放ち、遂に大惨事を惹き起すに至つたのである。