横浜の繁昌は、土地ッ児だけでは洋妾が引張り足らず、周旋屋は江戸まで足を伸ばして、猖んに上玉を物色した。
そのうちに、諸外国人が、江戸にも住むやうになつたので、玉川の上水で磨きをかけた江戸娘が、月給の高いのに目がくれて、処女洋妾の志願者が続出して、横浜のお株を奪はうとした矢先きに、万延元年正月七日白昼、ラシヤメン伝吉と綽名に呼ばれた周旋屋の元締が、浪士のために斬殺された事件が起つた。
伝吉は、土佐の漁師であつたが、横浜と江戸を転々してゐるうちに、多少とも英語を解するやうになり、その頃、芝高輪の東禅寺にあつた英国公使館の小使兼通弁に住み込み、館員から重宝がられて ゐた。
しかし、重宝がられた真の原因は、伝吉が館員の意を承けて、江戸の娘を洋妾に取持つたからである。伝吉は、諸方の慶庵と気脈を通じ、中間に立つて莫大な口入料を取り、英国公使館ばかりでな く、広く諸外人の註文に応じたので、遂にラシヤメン伝吉の肩書を与へられ、これが元締のやうに世間がら見られてゐた。従つて、伝吉の手で洋妾になつた江戸娘の数は、決して尠いものではなかつたのである。
芝三田の蕎麦屋鶴寿庵の娘お花が、月給四十両三ヶ月分前渡しの約束で、更に、本芝二丁目の妙法院の娘おかのが、同じ条件で、二人ながら伝吉の手で洋妾になつたと云ふ評判は、三田の薩摩屋敷に潜伏してゐた攘夷党の、浪士の神経を極度にまで昂奮させた。
殊に、鶴寿庵のお花には浪士の情夫があつたと云ふのだから堪らない。恋の遺恨と、敵愾心が一緒になり、
「洋夷の分際で、神国日本の婦女を汚すさへ拾て置けぬのに、その洋夷の犬となつて、婦女の買ひ出しに当るとは奇怪なり」と、云ふので、伝吉は、自分が勤めてゐた東禅寺の公使館前で殺害された。
翌文久元年の五月に、浪士が東禅寺へ斬込んだ際に、公使館の一室で、二人の若い洋妾が殺された。それが、お花とおかのであるか否かは、永久に解けぬ謎として今に残つてゐる。